名人の船

 カナギ漁という漁法がある。

 カナギ船という特殊な船に腹ばいになって箱メガネで海を覗き、先端に鉤のついた五、六メートルもある竿で貝を捕る漁法をいうのだが、島でカナギ漁の名人といわれていた七十代の男性が腰の手術の後遺症で杖歩行になった。

 それでも海に出るという名人を家族は心配して決して船に乗せなかった。再び漁に出る日を夢見る名人にさらに軽い脳梗塞が襲い、言葉も不自由になった名人のリハビリを担当することになったのがKさんだった。Kさんは落胆する名人のために、プールにアワビやサザエの貝殻を撒くことを思いついた。

「獲物を捕るのは海の男の本能ですからね」

 懸命に水底の貝を探す名人は、回復こそ思うに任せなかったが、目にはもう一度漁に出たいという願いが燃えていた。

 その目がKさんの思いを飛躍させた。

「名人の船で一緒に海に出ましょうよ。私は小型船舶の免許を持っています」

嬉しそうに頷く名人の脳裏には、名人しか知らないアワビの漁場が浮かんでいたに違いない。

「せっかくですが船は動かん思います」

 家族にそう言われたKさんは、船に詳しい友人に頼み込んでエンジンの修理の目途をつけた。

 既に仕事の範囲を超えていたが、もう一度だけ名人を、名人の船で海に浮かべてやりたいと思っていた。しかし、

「気持は大変有難いのですが…」

 と前置きして家族が出した結論は全く方向の違うものだった。

 大切な夫を危険にさらす訳には行かないと言われれば、返す言葉がなかった。

「…で、名人は?」

「あれから次第に衰えて、今では胃から直接栄養を入れながら終日施設のベッドの上です」

「船は?」

「海につながれて処分される日を待っています」

 Kさんはそう言って苦い顔をした。