芝居

 弟からの電話は久しぶりだったが、内容は相変わらずだった。

「あんたねえ、返す、返すって、返してくれたことある?食えないんだったら芝居なんかやめちゃえばいいのよ。おカネは絶対送らないからね」

 仕事中だから切るわよ…と携帯電話をポケットにしまうと、奈津子は素早く洗面所を出て持ち場に戻った。

 光治は一浪して入った大学で演劇に夢中になり、卒業してからも売れない劇団に所属して、ほそぼそとアルバイトで食いつないでいる。

「プロになれるのなんてほんのひと握りなんだから、いつまでも夢見てないで、ちゃんと就職しなさいよ。働いて人の役に立つ。それが大人の生き方よ」

 いつだったか光治に意見したことがあるが、

「舞台を見て人が感動するんだ。これ以上素晴らしい仕事がある?ぼくはやめないよ」

 学生のような答えが返って来て以来、奈津子は一切の援助を拒否した。

「ボランティアの皆さんがいらっしゃいました。ホールへお集まりください」

 老人ホームに放送が流れ、奈津子は忙しくなった。

 車椅子に座ることのできるお年寄りを全員ホールに移動させるのは大変な作業だが、働くとはこういうことだ。

「大橋さん、最後になりましたね。さあ、押しますよ」

 声をかけても大橋民雄の反応はなかった。

 旅行の帰りに息子がハンドルを切りそこね、一瞬にして家族と手足の自由を失った民雄は、この半年間、奈津子がどんなに働きかけても決して表情を崩さない。

 民雄にとって人生は呪うべきものなのだ。

 車椅子で埋め尽くされたホールのステージにはいつもの婦人会の民謡と違って、彩色した複数の段ボールの箱で終戦当時の焼け跡がこしらえてあり、やがて、

「健一!健一!」

 もんぺ姿の女性が大声で叫びながら登場した。

 空襲で逃げ惑ううちにはぐれてしまった母と子が再開を果たす物語は、車椅子の観客の胸を打った。

 ふと見ると、大橋民雄が嗚咽を漏らして泣いている。

 日常の世話をする奈津子の努力ではどうしても手の届かなかった民雄の心を、芝居が揺さぶったのだ。

 翌日、奈津子はちょっと無理をして、光治の口座に五万円を振り込んだ。