通潤橋

 阿蘇の南に位置する山都町という町に招かれて、通潤山荘という名前の国民宿舎に二泊しました。

 着いて早々にフロントで、

「通潤橋にはどう行けばいいですか?」

 と聞くと、

「この建物の裏を歩いて行かれると、ちょうどその橋の上に出ます。橋を渡り切ると階段がありますから、谷に下りて橋を見上げて下さい。それが一番近道です」

 通潤橋…。調べてみれば有名なこの橋を、私は不勉強で知りませんでした。

 水の足りている集落と不足する集落を結ぶ灌漑用の石橋で、ペリーが黒船で浦賀にやって来た昔に造られました。七十五メートルの長さもさることながら、地上二十メートルという高さに弧を描く石組みのアーチの美しさは圧巻で、最近では橋の中央から谷に向かって左右に放たれる豪快な水のアーチを見たさに、たくさんの観光客が訪れています。

 フロント嬢が教えてくれた通り、ホテルの裏へ回って細い坂道を下りて行くと、左手に神社、右手に鬱蒼とした竹薮を過ぎた辺りで豁然と視界が開けました。雑草に縁取られた石畳の道が中空に一直線に伸びています。

 それが通潤橋でした。

 幅六メートルの、手すりも無い橋の途中で谷を覗き込んだ私は、慌てて中央に戻って胸の鼓動を整えました。はるか眼下を流れる谷に、危うく身を投げてしまいそうな衝動を感じたのでした。

 対岸に渡り終え、つづら折りの階段で谷まで下りて見上げた通潤橋は、堂々たる建造物でした。これほどの石橋を、クレーンもない江戸の昔に…と思うと、スカイツリーを見た時の感動に劣りませんでした。

 さて、二日目の晩のことです。

 私は人恋しくなって、主催者の一人が勧めてくれた小さな焼き鳥屋に出かけて行きました。カウンターに席を取って、焼酎の湯割りをゆっくりと飲んで、店を出たのが午後八時。人通りの絶えた歓楽街をぶらぶら歩いて、ホテルへ続く坂のふもとにさしかかった時です。

 左前方にライトアップされた通潤橋が夜の闇に浮かんでいました。

 このまま坂を上ればホテルまで相当の距離がありますが、通潤橋を渡ればホテルの裏はすぐそこです。私は迷わず川に沿って通潤橋を目指しました。

 こんな冬の夜中に橋に向かって歩いているのは私一人だけ。他に人影はありません。歩くにつれて堰堤から落ちる瀬音が大きさを増して行きます。月も星もない闇の中を橋の明りだけを頼りに歩き、やがて周囲がザァーッという瀬音に包まれた時、私は思わず立ちすくんで息を飲みました。ライトアップされた地上二十メートルの橋のアーチが水面に映り、中空に巨大な石の円を描いています。まるで別世界への入り口のような大きな穴が、目の前の闇の中で、ぽっかりと口を開けているのです。

 俗に、怖いほど美しいと言いますが、美しさも巨大になると、恐怖を伴うものなのでしょうか。或いは「綺麗だよ」「綺麗だね」と言い交わす相手のいない状態における人間の感受性は、簡単に許容量を超えるものなのでしょうか。私は寒気がするような恐怖に襲われて、一刻も早くホテルに帰ろうと思いました。

 橋を渡るには、まず、つづら折りの階段を登らなくてはなりませんが、ライトアップの光は上に行くほど届きません。携帯電話のわずかな明かりで地面を照らしながら、這うようにして橋の上までたどり着き、のっそりと立ち上がった私は、たちまち方向感覚を失いました。

 橋の上には全く光がありません。

 世界は瀬音と化し、指先も見えない闇の中で平衡が保てないのです。

 それでも私は橋を渡ることしか考えてはいませんでした。橋の幅は六メートル。石畳を手探りで確かめながら七十五メートルを這って渡れば、ホテルはすぐそこです。ところが、道は一直線なのに、闇の中では進む方向さえ分からないのです。試しにしゃがんだ姿勢でそろり…と足を出すと、瀬音が警告するように激しさを増し、目もくらむような谷底の景色が浮かびます。

 引き返そう…。

 その方が賢明だと素直に思いました。携帯電話の画面を見ると八時四十分でした。一旦怖気づいた心には歯止めが効きません。ひょっとすると、九時にはライトが消えるかも知れない…。そうなったらつづら折りの階段を下りることもできなくなる。

 斜面は登るより下りる方が骨が折れました。

 悪い方へ悪い方へと膨らむ不安に追いかけられるように道を急ぎなから、芥川龍之介の「トロッコ」という作品がしきりと思い出されました。ふもとの舗装道路にたどり着き、延々とカーブする坂道を休み休み上り、ようやくホテルの玄関にたどりついた私は、

「おかえりなさい」

 笑顔で迎えてくれるフロント嬢を、遠い世界の人のように感じていました。

 湯船で温まっていても、布団に横になっていても、まぶたの裏には、中空に浮かぶ、あの美しくも恐ろしい巨大な石の穴が焼きついていました。

 翌朝、駅に送っていただく車が大きなカーブを下り切った時、今度は右前方に通潤橋が見えましたが、昨夜闇に浮かんでいた橋とは似ても似つかぬ変哲も無い石橋が、朝日の中で谷をまたいでいたのでした。