湯気

 駅前でタクシーを拾った鈴子は久しぶりに見る故郷の様子に目を見張った。古くからの酒店はコンビニに変わっていた。青い暖簾のうどん屋はコインランドリーになっていた。旅館は取り壊されて広々とした駐車場になっていた。十年でこんなに変わってしまうんだわ…と驚く鈴子自身が、あの日、妹に見送られて列車に乗った鈴子とは別人のように都会の匂いを漂わせていた。

「お姉ちゃん、考え直してよ。平凡が一番よ」

「言わないで!さんざん考えた末の決心なんだからね」

 確かに孝雄はいい人だったが、長女だからといって自分の可能性をあきらめて、周囲の決めた男を婿に迎え、育児と両親の世話に明け暮れながら、役場の職員の妻として一生を送るのは嫌だった。

 前日になって密かな決意を打ち明けられた梨恵は、

「お姉ちゃんの可能性は全部ここにあるじゃない!」

 東京で出版の仕事がしたいという鈴子の夢に猛然と反対したが、短大も家政学部を選んだ妹と文学部を卒業した自分とでは、初めから抱いている夢が違っていた。

 鈴子は東京に出た。六年間働いた蓄えが頼りだった。

 妹を保証人に小さなアパートを借りて、夜はスナックで働き、昼書いた小説を客に見せた。コネも実績もない二十六歳の田舎娘が出版社にもぐりこもうとすれば、客としてやって来る関係者と知り合うのが一番の近道だった。

「ほう…君はいい文章を書くねえ…」

 チャンスは三年目に訪れたが、採用されたのは文芸誌ではなく小さなタウン情報誌の編集社だった。営業に回り、契約が取れるとカメラマンと一緒に取材に出かけては主に飲食店の記事を書いた。自分の文章が活字になるのは嬉しかったが、これがあの時自分を駆り立てた可能性なのかと自問すると空しかった。複数の恋愛はどれも結婚には至らず、気がつくと三十の半ばを過ぎていた。

「もしもし…うん…みんな…どうしてるかと思って…」

 勇気を出して電話をすると、二度と顔を見せるなと言ったはずの両親は電話口で代わる代わるに泣いて喜んでくれた。タクシーが着く気配で家から飛び出した三人の子供たちは、すぐに引き返し、今度は梨恵夫婦の背中に隠れるように現れた。

「お父ちゃん、お母ちゃん、私…」

「話はあとあと。食事にしようよ、待ってたんだから」

 すっかり主婦としての安定感を身につけた梨恵が土鍋の蓋を取ると、初めて一緒に食卓を囲む八人の家族の真ん中で真っ白な湯気がぼうっと立ち上った。