人権

 台所からコップを持ち出した徹也が、サイドボードのウィスキーを取り出そうとするのをちらっと見た瞬間にしまった!と思ったが、その時はもうコップが和江の顔を直撃していた。

「仕事もしていない俺がウィスキーを飲んじゃ悪いのか!え?おふくろ」

 黙って眉間を押さえる和江の手から鼻の脇を通って、真っ赤な血が一筋したたり落ちていた。こんな時、止めに入ると反って息子の興奮を誘うことを知っている昌昭が、ソファーの上で身を縮めると、

「何だ、親爺!」

 睨みつけた徹也の目は正常な精神の輝きを失っている。

「自分の妻が血を流してるのに知らん顔かよ!昔、偉そうに俺に、働かざる者食うべからずって、説教したんじゃなかったのかよ!」

「・・・」

 徹也は胸ぐらをつかんで昌昭をソファーに押し付けた。

 今度は和江が部屋の隅で身を縮めている。

 就職した鉄工所を辞めて以来、もう二年にわたってこんな状態が続いていた。逆らえば命の危険があった。息子に殺人の罪を犯させる訳にはいかなかったが、さすがに和江が肋骨を折った時は、方々に相談に出かけた。

「一度、精神科で診察を受けることを勧めますが、病院に連れて行くのは身内でなさるしかありませんよ」

 と市役所の相談係は言い、

「事件が起きれば介入できますが、傷害ではすぐに釈放です。まあ、それからが大変でしょうなあ…」

 いっそ、ご両親が転居されてはどうかと、現実離れしたことを警察は言い、

「私どもは民間ですから、職員が出向いて無理やりでも入所させていましたが、別の施設で死亡事故が起きてからは難しくなりました」

 マスコミがやかましいですからね、と更生施設の職員は申し訳なさそうに言った。

 いずれも最後に、人権尊重の世の中ですからと付け加えるのを忘れなかった。

「おい!何、白けた顔してやがるんだ!」

 徹也に力任せに首を絞められて、昌昭は目をむいた。

「俺をこんなにしたのは親爺だろうが」

 と言われても心当たりがなかった。

 かすむ視界の中で、徹也の顔が歪んでいた。