玄関のチャイムと同時に静子は壁の時計を見た。

(今夜も十一時を過ぎている…)

 疲れたから風呂はやめだと寝室に向かう夫の体から、かすかに石鹸の匂いがすることがある。タバコを吸いに出た玄関脇で、ひそひそと携帯電話をかけていることがある。大阪の出張から戻った背広から、宿泊人数が二名と記された九州のホテルの領収書が出てきたことがある。

 しかし、どれもこれも追求すれば平穏な日常があっけなく壊れそうな予感がして静子は触れないでいた。

「光雄は口を利いたか?」

 帰るなり、それが義務のように尋ねる夫に、部屋に引きこもったまま口を利かない息子の様子を報告すると、

「そうか…思春期は厄介だからなあ。ま、心理の先生が言う通り、気長に見守るしかないってことか…」

 そこから先の会話を避けるように、夫はテレビをつけて冷蔵庫から缶ビールを取り出した。

 その顔が突然見知らぬ他人に見えた。

( 夫は光雄の心配などしていない…)

 と思ったとたん、静子はハッとした。

 夫の疑惑に心を奪われて、静子自身も本当には光雄の心配をしてはいなかった。

「光雄くんは自立という思春期の課題に懸命に取り組んでいます。ご両親は気長に見守ってあげて下さい」

 子育てどころか、夫婦の確執さえ経験したことのない若いスクールカウンセラーの空疎な言葉を楯に、多感な中学生を遠巻きにしたまま向き合わなかった。

 自立しなければならないのは静子自身だった。

 静子は夢中でテレビを消して夫の手からビールを払い落とした。フローリングの床に、たちまち大量の白い泡と饐えた匂いが広かった。

 驚いて立ち上がる夫を静子は無言で睨みつけた。

 な、何だ、どうしたんだ!と、う

「あなたには関係がないって言うの!」 ろたえながら、

「一人でヒロインぶるんじゃないよ。帰って来れば、息子は引きこもってるし、妻は陰気な顔してる…。家の中がこう暗くちゃ、俺だってやってられないよ!」

 夫が本音を吐いた。

「あなたには関係がないって言うの!」

 静子が結婚以来初めて感情をむき出しにした時、二人は自分の耳を疑った。

「やめろ!」

 階段の踊り場で光雄が短い叫び声を上げた。