教壇

 普通は二人で並ぶ机に一人で、それも教室の一番前に陣取って盛んにノートを取る山村のことを、最初は表情の硬い学生だな…と思っただけだった。しかし、国が実施した若者の食生活に関する調査結果を紹介する前に、クラスの現状を聞いてみようと考えた卓雄が、

「今朝、食事を摂って来た者は手を挙げて下さい」

 と質問しても反応せず、

「では、食事を取らなかった人は?」

 と促しても一人だけ顔を上げようとしない様子を見た時、変なやつだと思うようになった。やがて、わが国の少子化の要因を考察する導入として、

「将来、子供を二人以上欲しいと思う人は?」

 と聞いても手を挙げず、

「子供はいらないか、いても一人だと考えている人は?」

 という問いも無視されるに及んで、ひょっとすると自分は山村から嫌われているのではないかと思った。

 教員は全員の学生から好かれていなければならないと思っている訳ではなかったが、嫌われる原因が思いつかないだけに不安だった。意識して教壇に立つと、卓雄の冗談にクラス全体がどっと笑っても、山村だけは笑わなかった。後ろへ送る講義の資料を最前列の学生に渡す時も、山村一人は不本意な表情で、ひったくるような受け取り方をした。廊下ですれ違っても、山村は挨拶どころか目も合わさなかった。たくさんの事実が、山村の卓雄に対する嫌悪を証明していた。そうなると今度は卓雄の方が山村と目が合わせられなくなった。

 個人的な会話を交わしたことは一度もない…とすれば、講義の中で不用意に彼を傷つけたに違いない。

(朝食を取りたくても取れない家庭の事情があったのだろうか…欲しくても子供のできない身体なのだろうか…教員の冗談を不謹慎だと感じているのだろうか…資料の配布は教員の業務だと考えているのだろうか…)

 いつしか卓雄は教壇に立つのが苦痛になった。冗談が言えなくなった。授業が終ると逃げるように教室を去る山村の後姿が、お前の講義はくだらない内容だと言っているような気がして、授業の前日は眠れなくなった。

「あの…先生、ちょっといいですか?」

 心理学を教えている同僚の長沢に相談しようとすると、

「実は私もお話があったのです」

 長沢は別室に場所を移し、声を落としてこう言った。

「ある学生から打ち明けられましてね、先生から理由もなく嫌われているような気がすると言うのですよ」