胎動

 出産のために実家へ帰る朝、いつになく活発に胎児が動いた。

「ねえ、また動いたわよ!」

 目を輝かす陽子にちらりと視線を送っただけで、公一は無言で運転席に乗り込んだ。

(胎児が動くのは当たり前だろう?)

 そう言いたげな顔を夫はしていた。

 実は妊娠するまでは陽子もそう思っていた。

 父は友人の保証人になって長い間借金に苦しんでいた。母はそんな父の愚痴を言いながら夜遅くまで働いた。兄は長期のボランティアに出かけた海外で、恋人からの別れの手紙を受け取った。

 人はつまらないことに心を動かしては人生を踏み外す。

 だから当たり前のことに感動などしない真面目な銀行員とお見合いで結婚し、自分も煉瓦を積むように淡々と日常を過ごして来たはずだったのに、最近の陽子は胎児が動いたといっては声を上げ、ベランダから見える夕日の美しさに涙ぐむ心の変化に戸惑っていた。

 故郷が近づくと、左手に広々と木曽川が開けた。

 桃太郎神社が見えた辺りで、

「停めて!」

 陽子が突然安産祈願をすると言い出した。

「安産なら、神様よりお医者様だろう…」

「小さい頃、家族で来たのを思い出したのよ」

 子供を護る桃の精を祀っているという珍しい神社の参道には、ペンキも剥げかけたコンクリート製の犬や猿や雉が並び、やしろに続く石段の中央でピンクの桃太郎が万歳をしている。

 その晴れ晴れとした無邪気さが今も続いているのが嬉しかった。

 参拝した拝殿の壁を絵馬が埋め尽くしていた。その中の一枚が陽子の謎を解いた。

『妊娠してから、赤ちゃんと一緒に心も動きます。いのちって感動だったのですね。元気で生まれて来ますように…』

 陽子の腹部で再び胎児が動いた。

「おい、そろそろ行こうよ」

 機嫌の悪い公一を、『子供の守り神』という旗を担いだ鎧姿の雉が不思議そうに見ている。