ふみの暗闇

 居間の電気を消そうとして、ふみはふいに二十年も昔に同年の民子と交わした会話を思い出した。年金を繰り下げて六十歳からもらうと言うふみに、民子は確かこう言った。

「私はふみちゃんと違って年金は生活費やで七十歳に繰り上げることにした。そうすりゃあ月九万円になるでなあ」

 子供のいない者同士だが、夫と別れてほそぼそと食堂を営む民子に、その時ふみは同情したことを覚えている。六十歳から受け取る年金は減額されて月額四万円に満たないが、夫の辰夫は六十五歳を超えても大工の手伝いに出かけてくれている。辰夫の年金と貯えを加えれば、田舎の生活に不安はない。ふみは自分の年金を定期的に振り込まれる小遣いと考えていた。

 その日ふみは、いつものように民子の店で焼きそばを食べ、辰夫の酒のあてにおでんを買った。ふみの店を使うのは、ふみの境遇に対するささやかな協力のつもりだった。

「あんた、おでんを買って来たで」

 声をかけたふみの手から発泡スチロールの器がすべり落ちて、床におでんが散乱した。

 夫の辰夫が台所で吐血して倒れていた。

 それから二年…。辰夫は治療のために貯えを使い果たして逝った。辰夫が死ぬとふみの年金だけが生活費になった。月額四万円に満たない金額では、食べるのがようやくだった。

(節約するのは食費と光熱水費しかない…)

 ふみは一週間は風呂の湯を替えず、使わない場所の電気は消した。町内の付き合いもしなくなったふみのために、時おり民子が差し入れてくれる焼きそばが惨めだった。

(こんなに生きるつもりではなかった…)

 トイレに行こうと居間の電気を消し、通路の電球から下がる紐式のスイッチを引っ張ろうとして、スリッパがうまく履けなかった。たたらを踏んで転倒したふみの左大腿骨に激痛が走った。ふみは携帯電話を持っていない。固定電話まで移動もできなかった。突き上げるような痛みに耐えながら、ふみは自分を包む暗闇の恐ろしさにおののいていた。