麻子の計略

 永吉の遺体は、一旦は二人で住んでいた市営住宅の部屋に安置して、せめて同じ階段の人たちには通夜の別れを惜しんでもらうべきだと思ったが、脳出血で倒れて寝たきりの状態で退院して来た永吉を、麻子一人で世話をした二年半の間に、近所から親切を受けた記憶はただの一度もない。

 麻子は一晩、葬儀屋の霊安室で遺体に寄り添った翌日、永吉の骨壺と一緒に部屋に戻って来て考えた。子供のいない麻子は天涯孤独になった。三つ上の兄は十年前に死んだ。兄には子供が二人いたが、過去に金銭の迷惑をかけて以来、年賀状はおろか、冠婚葬祭の付き合いもない。

 私が倒れたらどうなるのだろう…。

 それがにわかに気がかりになった。

 永吉は介護保険の認定を受け、特別養護老人ホームが申し込んであったが、容易に空く気配はないまま、麻子一人の介護が二年半続いた。福祉サービスを頑なに拒否する永吉に、お粥を食べさせ、体を拭き、おむつを取り替えた苦労を、麻子のために引き受ける人はいない。

 麻子は市役所に出向いては福祉関係の資料を読みあさり、窓口の職員にも尋ねて一つの結論を得た。体が不自由にならないうちに、養護老人ホームに入所しておけば、その後、介護が必要になったとしても、放置されるようなことはない。低所得に加えて自宅で生活できない事情さえあれば、市役所は養護老人ホームに入所するよう本人を説得する。タンスの中には、永吉と二人でこつこつ貯えた三千万円近い現金があるが、黙っていれば、年金生活の麻子は典型的な低所得者である。もちろん、長年続けた節約生活の習慣で、麻子には、例えば豪華な有料老人ホームの生活に貯えを充てようという気はなかった。

 麻子は翌日からゴミ出しの曜日を敢えて間違えた。

「気を付けてくれないと困るよ、生ごみは野良ネコがあさるから」

 役員が何度注意しても改まらない麻子の様子は、民生委員を通じて市役所に伝わった。

 やがて麻子の台所からボヤが出るに及んで市役所の担当者が民生委員と共に訪ねて来た。

「麻子さん、みんなあんたの生活を心配してるんだ。施設に入る気はないかね」

「いや、私は永吉さんと暮らしたこの部屋を動きません」

 麻子が抵抗すればするほど、説得は頻度を増した。

「なあ、麻子さん。あんたが永吉さんを思う気持ちは分かるがね、火事でも出して、あんたにもしものことがあったりしたら、誰よりも永吉さんが悲しむとは思わないかい?」

 民生委員の言葉に打たれたように、麻子はしばらくタンスの上の骨壺を見つめていたが、、

「お任せしますので、どうかよろしくお願いします」

 決心したように頭を下げた。