遺書

 訃報を聞いて駆けつけた時には、泰治の遺体は既に病院の霊安室に安置されていて、付き添っていた有料老人ホームの職員が慇懃に頭を下げて春雄を迎えた。

「夜中に激しく咳き込まれて何度かお背中をおさすりしたのですが、突然静かになられたので心配して様子を見に行くと、お父様のくちびるは既に紫色になっていまして…」

 葬儀はどうするのかと遠慮がちに尋ねられ、

「施設がお世話下さると聞いていましたが」

 春雄が答えると、

「それはもう…お任せください」

 職員はそそくさと廊下に出て、ひどく事務的な口調で系列の葬儀社に連絡をした。

 通夜は真新しいセレモニーホールでひっそりと行われた。夏子と秋雄も加わって、久しぶりに子供たち全員の顔が揃ったのを見計らい、

「実はご本人の机の中にこんなものが…」

 弔問に訪れた事務長が差し出した数通の封書の束には、どの表書きも『遺書』という筆ペンの文字が勢いよく躍っていた。

「何これ?遺産は全て春雄に譲るって大きな字でただそれだけ書いてあるわ」

「ん?こちらのは夏子になってるぞ」

「これは秋雄だけど、あれ?これは春雄だ」

 しかしそもそも土地を売ったカネで妻の医療費と借金を支払って賃貸の施設に入った泰治に遺産と呼べるほどのものは何もない。なのに日付も飛び飛びで内容もばらばらな複数の遺書を一体どういうつもりで書いたのだろう。

「そうだ!ボケてたんだよ、親爺。だからたまに見舞っても、何も言わずにこっちの顔をじいっと見てたんだ」

「そうか、ボケてたのか!俺も泣きそうな顔でじいっと見つめられて困ったぞ」

「…で、どうする?これ」

「保管するのもあれだから、棺に入れよう」

 こうして遺書は、子供たちがそれぞれ父親を見舞った日に書かれたものであることに気づかれないまま、翌日遺体と一緒に灰になった。