民営化

平成29年12月16日

 郵便局の事務所から窓口の様子を眺めていると、初期の認知症高齢者は簡単に見分けがついた。印鑑を失くす。通帳を失くす。ATMの操作ができない。そういう高齢者は、例えば局員が改印の手続きを丁寧に教えても一回では理解できなかった。

「お困りでしょう?ちょうど外回りに出ますから、ついでに一緒にお宅に寄ってお手伝いしましょうか?」

 と紺の上着を着た黒崎和正が声をかけると、恐縮しながらも喜んで自宅に案内してくれる。民営化で営利企業になっても郵便局は、高齢者にとって信用できる身近なお役所なのだ。

 平野松子もそんな高齢者の一人だった。

「いいところにお住まいですね。この辺りはよく回るんですよ」

 案内されるまでもなく、自転車を押す和正は、松子の住所を調べて既に知っていた。通帳番号も分かっていた。端末を叩けば松子の年金額から貯金額、月々引き出される生活費まで、郵便局の取引情報は簡単に入手できた。ただ残念ながら郵便局のデータには家族構成までは登録されていない。和正は松子が一人暮らしかどうかを知りたかった。

「印鑑失くすと本当に厄介ですよね。私、黒崎と申しますので覚えておいて下さい。印鑑でも通帳でも失くされたときは、私にそう言って下さればお手伝いしますが、手続きは委任状を書いて息子さんやお嫁さんでもできるのはご存じですか?」

「長男は東京で所帯を持ち、長女は神戸に嫁ぎました。主人が亡くなってから七年になりますが、私はずっと一人暮らしですよ。長男はやさしい子で、一緒に住もうと言ってくれますけど、この歳になって今さら東京なんてねえ」

「確かにね。どんなにいい息子さんでも、お嫁さんには気を遣いますからね。一人の方が絶対気が楽だと思います」

 これで松子が一人暮らしであることが分かった。一度心をつかんでしまえば、一人暮らしの認知症高齢者ほど扱いやすい顧客はなかった。

「それじゃ松子さん、ええっと…顔写真付きの敬老パスと、保険証と、新しい印鑑を用意できますか?」

 玄関先で必要なものを整えさせて、

「改印届は私が書きましょうか?」

 和正が言うと、松子は素直に新しい印鑑を差し出した。

「それじゃ一旦お預かりして、手続きが済んだら通帳と一緒にお持ちしましょうね。それと、これをご縁に松子さんとは親しくさせて頂きたいので、特別にいいものをご紹介しましょうね」

 和正は黒いカバンから複写になった用紙を取り出した。

 松子は会話の流れから、何か記念品がもらえるのだと勘違いをした。

「申し込めば、季節ごとに全国の珍しい名産が届きます」

「おカネは?」

「現金は要りません。住所や氏名はご自分で書けますか?」

 言われた松子は、書道の腕前を見せつけるように、指定された箇所に丁寧に住所と名前を書いた。用紙にはあらかじめ代金の引き落としに必要な情報が記入してあることに松子は気づかない。黒崎が持っている松子の印鑑を押して料金引き落としの売買契約は成立し、そのことを松子は忘れてしまった。

 こうして和正はまた一つ全国名産ギフト販売の成績を上げた。届いた名産品は、届いたことも忘れ去られ、松子の家で封を開けないまま積み上げられて行く。