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頭上の哺乳瓶
病院で患者さんの相談に応じる仕事に従事していた頃のことである。
退院する家族の介護が困難だから施設を探して欲しいという相談が大半を占める中で、夫婦二人世帯であるにもかかわらず、寝たきりの夫を家に引き取った妻がいた。
彼女は合図を待つランナーのような目でこう言った。
「借金のある身に施設の費用は高すぎます。私が働かなくては食べていかれないのです」
ということは、寝たきりの夫を一人家に残して、妻は調理員の仕事を続けるということではないか。喉が渇いたらどうするのだろう。お腹が空いたらどうするのだろう。トイレは?寝返りは?
その答えは、ある日、昼休みを利用して家庭を訪問した私の目の前で鮮やかに展開していた。
枕元の皿には小さく握ったいくつかのおにぎりが乗っており、天井から夫の頭上に向けて、ゴム紐に結わえ付けられた複数の哺乳瓶とテレビのリモコンがぶら下がっていた。
「これはお茶、こっちは水、そして主人の好物のりんごジュースです」
左手の利く夫は、喉が渇くと手を伸ばして好きなものを飲み、放せば哺乳瓶は頭上に戻る。
「おむつは昼休みに戻って私が替えます。テレビはリモコンでほれ…」
好きな番組が観えるよね、お父ちゃん!と言われた夫は、恐らく笑ったのだろう。うめくような声を出して麻痺した顔面を引きつらせた。
「この人は腕のいい大工やったけんど、これからは腕のいい患者になってもらわんにゃ…」
妻は手際よくおむつを替えた。
夫は、既に腕のいい患者であるところを私に証明するように、頭上のリモコンを手繰り寄せてテレビを点けて見せた。
運命に従順な者は、時にたくましい。
「おや、もうこんな時間だ…」
柱時計を眺めた妻は、遅刻する遅刻するとつぶやきながら、慌てて自転車にまたがった。
終