誤算Ⅱ

平成30年03月15日

 樋口敦子が母親の美佐子を入居させたグループホームは、不動産会社が経営母体だった。競売される担保物件の情報が容易に手に入る立場を活用して取得した土地に新しい施設を建設しては、県をまたいだ施設経営を矢継ぎ早に展開していた。ウェルフェアは福祉という意味である。パンフレットは明るい笑顔に溢れていたが、人材不足のあおりで大半が無資格の介護職員だった。しかも、施設が軌道に乗り始めると、若い職員たちを束ねる有資格者は、新たに開設する施設の責任者として異動させられるため。ウェルフェアという名前とは裏腹に、どこの施設もケアに不慣れな職員で運営されていた。

 記憶障害を中心とするアルツハイマー型の認知症に比べ、幻視や、それに伴う不安や、夢遊病のような行動を特徴とするレビー小体型認知症には、専門知識に基づく特殊なケア技術が要求されるが、一日も早く定員を満たして収益を上げることだけを目的とするウェルフェアグループでは、満足な職員研修も行われてはいなかった。

「そんなとき、私、母の首の周囲に指の痕のような青い痣を見つけたのです」

 敦子はそう言って怒りのこもった目をして梶浦を見た。

 まさかと思って美佐子の体を点検した敦子は愕然とした。明らかに外部から力を加えられてできたと思われる皮下出血の痕が、衣服の下に点々と隠れていた。

「母さん、どうしたのよ、この痣は!」

 と肩を揺さぶっても、壁のわずかな汚れが虫にでも見えるのだろうか、美佐子は怖い顔で一点を睨んで黙っている。

 ご自分で首を絞められたのではないですか?ロッカーやベッドの柵に体を打ちつけたのかも知れないですよ。ほんの少しの力で皮下出血をしてしまう体質なのではないですか?

「とにかく美佐子さんは何をするかわからないですからね」

 という介護職員の無責任な返事に納得できない敦子は、

「レビーだからって自分の首を絞めたりはしませんよ。きちんとしたご説明をして頂きたいと所長さんにお伝え下さい!」

 珍しく強い口調で抗議すると、その晩、所長からかかって来た電話は思いがけない内容だった。

「ご心配をおかけして申し訳ありません。ウェルフェアの所長の橋本です。職員から伺いましたが、疑問を抱かれたお母様の痣については、早速、明日にでも提携医院のドクターに診て頂いて、原因が分かればお報せ致します。それから、長い間娘さんに付き添って頂きましたが、お母様もようやくホームの生活に馴染まれたようですので、明日からはご都合のいいときに面会して頂くだけで結構です」

「え?母にはもうついていなくていいのですか?」

 敦子が言い終わらぬうちに電話は切れた。

 嫌な予感がした。グループホームは夜になると、一ユニット九人の利用者をたった一人の職員で看る。恐らく夜間に問題行動の多い美佐子のケアに手こずった痕跡が複数の痣になっているに違いない。この上、敦子という監視者がいなくなれば、昼間だって何が起きるか分からないではないか。

「しかし、来なくていいと言われては、行けるものではありません。そのうち母は鎖骨を折り、続いて大腿骨を折るという大怪我をしたのです」

 敦子の目には涙が溢れている。

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