熱中症

平成30年09月04日

 その夜、福祉事務所からかかって来た電話に辰夫は激怒した。

「扶養届け?破いて捨てたよ。あんな人に送るカネがあったら鼻をかんで捨てる。あのときもそう言っただろうが。こっちだって生活は苦しいんだ。え?扶養できない理由を書いて返送しろ?そっちで勝手に書いておいてくれ!」

 二度と連絡して来るなと言って辰夫は電話を切った。

「あんた、いいの?今じゃ二人っきりの父子だよ」

 声をかけようとして妻の和子は言葉を飲み込んだ。

 辰夫はいつになく怖い顔をして壁を睨んでいる。

「酒、買って来い!」

 という父親の声と、

「そんなおカネがどこにあるのさ」

 という母親の声が辰夫の耳の奥に貼りついている。

 気に入らない上司と喧嘩して職場を辞めた父親は、それ以来定職に就かず、昼間から酒を飲んでは、辰夫の目の前で母親に暴力を振るった。

「やめてよ、お父さん」

 止めに入って殴り倒された辰夫の左耳は聴力を失った。

 母親が働いたカネを脅し取っては、父親は競馬に通ったが、母親が体を壊して稼げなくなると、家を出たきり戻って来なかった。無断で欠席が続く辰夫を心配して家庭訪問した担任の教師は、痩せ細った母親の傍らで泣いている辰夫を発見して役所に通報した。

 辰夫は児童養護施設に預けられ、母親は運ばれた病院で間もなく死んだ。火葬場で棺を前に年老いた僧侶が短い経を読んだ。役所の担当者と施設の職員と辰夫だけの簡単な葬儀だった。火葬炉が閉じる大きな金属音が、小学校五年生の辰夫の脳に刻み込まれて今も残っている。あれから四十六年…。

 行方の知れなかった父親が駅前で行き倒れて発見された。

 ホームレス生活の末の脳梗塞だった。

「一応、最も費用のかからない安井病院に生活保護で入院して頂きましたが、意識がないので、持ち物から身元を調べ、戸籍をたどって息子さんにお電話しています。扶養届けをお送りしますから返事を頂きたいと思います」

 それが福祉事務所からの最初の電話だった。

 辰夫が二度目の電話を切ってから、福祉事務所からの連絡は途絶えたが、ひと月ほどして入った三度目の電話は父親の死亡を知らせる内容だった。

「…こちらで簡単な葬儀を致しますが、お骨の扱いについてご意向を伺いたいと思いまして…」

 無縁仏で結構ですと答えようとしたとき、和子が大声を出した。

「ねえ、これってお父さんの病院じゃない?」

 テレビでは、クーラーの故障を放置して、数人の入院患者が熱中症で死亡した安井病院を糾弾するニュースが流れていた。

「もしもし…」

 保留のままの受話器から福祉事務所の職員の声が聞こえている。

 ようやく父親が役に立つときが来たと辰夫は思った。

「今、ニュースで見ましたが、これって病院に慰謝料を請求できますよね?」

 思いがけない辰夫の言葉に、職員は凍りついた。