雛飾り

 鈴子は八十歳になったら介護付きの有料老人ホームに入ろうと計画をしていたが、あと一年、もう一年と延ばし延ばして、実行に移したときには既に八十八歳を迎えようとしていた。

 さんざん探したあげく、便利で費用が折り合って雰囲気が良く、最期の身の始末まで安心して任せられる施設の空きがようやく見つかった。

「それではご入居は三月ということで…」

 保証人を甥に頼んで契約を済ませると、今度は現在住んでいる土地家屋の処分だった。

「施設に移られたら早い時期に取り壊しますから、家財道具の整理だけお願いしますね」

 と言われても、施設に持って行くのは身の回りの物だけでよかった。あれも要らない、これも不要だと選んでいくと、結局、写真や手紙の類が残った。鈴子は久しぶりに古い手紙を読み、写真を眺めていたが、七段の雛飾りの前で親子三人がおどけている写真を見つけた時、突然涙があふれた。娘が生まれた記念に夫が奮発した立派な雛飾りだった。

(この時は、自動シャツターのタイミングが合わないで、大笑いした…)

 半世紀も前のことなのに、最近の出来事のように記憶が鮮明だった。そのくせ、事故の報せを受けて駆けつけた病院のベッドに横たわる夫と娘の亡骸を見た時の衝撃には霧がかかっている。

 鈴子は押入れを開けて、長年しまったままになっている雛飾りを取り出した。

「いつまでも飾っておくと、お嫁に行けなくなるんだよね」

 そう言って一緒に人形を和紙に包んだ娘は、お嫁どころか、中学の制服も着ないまま逝った。

 真っ赤な雛壇を飾り終えた部屋は、嘘のように華やかになった。

「どうですか?色々なことがあったけど、経ってみればあっけないものでしょう」

 金屏風の前の内裏雛がそう言っているように見えた。とうに耐用年数を超えた老朽家屋は、雛壇が飾られたまま三月に取り壊された。