舌禍

令和01年12月20日

 浅井は、教員免許は持っていたが、義務教育の学校に勤める気は初めからなかった。公立にせよ私立にせよ、思春期の集団が扱いにくいことは分かっていた。現に浅井自身が小学六年生のときにいじめの対象になった。

「誰か黒板の数式の間違いが解る者はいないか?」

 どうだ、浅井…と指されて、クラスメートの板書の誤りを指摘してから陰湿ないじめが始まった。靴が紛失する。机の裏にべったりと糊が塗られている。教科書にヌード写真が挟んである。やがてクラス全員から無視されて、それが中学まで続いた。担任に相談すると、通り一遍のアンケートを実施して、

「誰もいじめてるやつはいない。考え過ぎじゃないか?」

 で済まされた。

 高校の教員になっても似たようなものだと思うと、浅井はためらわず進学塾の講師になった。学ぶ気のない学生に教えようとするから無理がある。安くない費用を支払って、学びたい者ばかりが集まる塾であれば、講師は知識さえ伝えればいい。生活指導や部活動やクラス運営といった煩わしさはない。講義が解り易いと評判になれば、受験本を書いたりDVDに出演して、カリスマ講師として世に出るのも夢ではない。

 ところが現実は違っていた。確かに一流大学を目指して真剣に学ぶ達彦のような生徒もいるが、親に言われて通っているだけの直人のような生徒もいた。そして直人のような生徒の親に限って、成績が伸びないのを講師のせいにした。

「うちの子は、どうして成績が伸びないのでしょうか?」

 と詰め寄られて、努力が足りないからだと正直に答えると、

「努力させるのも塾の仕事でしょう」

 そのために高い授業料を払っているのだと反撃された。

 受験が近づくと塾も宿題を出す。案の定、直人はやって来なかったが、その日は達彦までが忘れて来た。知事の汚職にからむ文書破棄事件で父親は渦中の人だが、息子は優秀だった。

 直人に対する腹立たしさが達彦に対する落胆に重なった。

「青山、お前まさか父親のように、宿題をシュレッダーにかけたんじゃないだろうな?」

 つい悪い冗談を言ってしまったのがいけなかった。

「シュレッダー?青山達彦…そうか、お前、新聞で騒がれてるあの青山何とかという県職員の息子やったんか!」

 直人が達彦を指差して大声を出した。

 それを家で得意になってしゃべったのだろう。

「この塾には、知事の不正を隠蔽するために文書を破棄した、例の県職員の息子が通っているみたいですね!」

 塾の玄関で、直人の母親とその仲間たちの、聞えよがしな会話が飛び交った。それに達彦の母親の文代が反応した。

「先生は父親を引き合いに出して、宿題をシュレッダーにかけたのかと息子をからかわれたそうですね?」

 文代は、夫の秀紀一人に責めを負わせた組織に対する憤りを、浅井という若い講師にぶつけていた。

「達彦はひどく傷ついています。このままでは済ませません」

 という言葉通り、浅井はやがて塾の理事長に呼び出された。

「浅井くん。君には期待していたのに、残念だよ」

「申し訳ありません」

 浅井はそれだけ言うと、内ポケットに用意していた辞表をそっと理事長の机に置いた。