財布

令和02年01月21日

 久しぶりの金閣寺だった。

「おれは四十八年ぶりか…」

 智久は路線バスのつり革につかまりながら久子に言った。

「これが人生で最後の金閣寺になるかも知れないわね」

 久子の言う通りだった。もうわざわざ訪ねることもあるまい。

 たまたま休暇が取れて夫婦で京都に行こうと思いついた。智久は太秦の映画村、久子は仁和寺の壁画が目的だったが、偶然、日程が祇園祭と重なったため、観光客はそちらへ流れ、映画村も仁和寺もあっけないほどスムーズに見学ができた。

「まだ半日あるぞ…」

「金閣寺にでも行ってみる?」

 こうして決まった金閣寺だったが、さすがは世界遺産だけあって、七月の炎天下の坂道を長蛇の列が上って行く。一番最後に並んだはずだったが、振り向くともう最後尾が見えなかった。

「こんなに若い人に人気があるのか、金閣寺は…」

 思わずつぶやいた智久の謎はすぐに解けた。

 周囲は大音量の中国語が飛び交っていた。かつてのように目立ったマナー違反があるわけではないが、彼らが放つ、生き物としてのエネルギーの量は初老の夫婦を圧倒した。

 やがて忽然と現れた黄金の楼閣には目を奪われたものの、カメラを構える人の群れと、その前でポーズを取る若い男女の人いきれの中では、たたずむ気にもなれず、ショーウィンドーでも見るように通り過ぎた。

 とても古刹の見学という雰囲気ではなかった。

「おい、デパートへ行こう。あそこなら静かで涼しい」

 日本の古都に出現した異国の喧騒から逃れたはずのデパートだったが、ここも異国だった。昼食のあとで飲んだ大量の水とソフトクリームが原因だろう、冷房で体が冷えたとたんに智久は腹痛に襲われて最上階のトイレに入った。落下しないようズボンの後ろポケットの財布をベビーチェアの上に置いたとき、ドアがノックされた。中国人だ!と智久は思った。日本人なら閉まったドアをノックはしない。中からノックで応答したが、しばらくすると今度はさっきより強くノックされた。

「慌てて出たら、やっぱり中国の若者だった」

 睨みつけてやったと、外で待っていた久子に智久は怒りをぶちまけた。それから一時間ほど二人はデパートを見て回ったが、大半は京都でなくても買える商品ばかりだった。

「金閣寺は外国だし、どこのデパートも変わり映えはないし…」

 面白くない時代だなと言いながら、飲み物を買おうとして智久は心臓が止まるかと思った。財布がない。

「トイレのベビーチェアだ!」

「行こう!」

「無駄だよ、おれのあとには中国人が入ったんだぞ」

「いくら入っていたの?」

「七万円だ。それより、キャッシュカードとクレジットカードと免許証と保険証が問題だ」

「とにかく落とし物の係りに行ってみよう!」

 期待しないで出かけた落とし物係のカウンターに、財布が届いていた。届け主は名前も告げずに立ち去ったという。

 智久はトイレで睨み付けた中国人の若者に心の中で手を合わせていた。