やさしい鬼

 祖父が骨折で入院したという報せを受けて、

「転んだのか?階段から落ちたのか?」

 と心配する私に、

「九十歳にもなると骨が脆くなるんだねえ…帳場で仕事をしていて立ち上がったら、足の甲が折れたんだよ」

 母親の声は沈んでいた。

 日曜日に病室を見舞うと、石膏で固定された右足を天井から吊って、角度を上げたベッドに背中を預ける祖父の姿は痛々しかった。

「だいじょうぶか、爺ちゃん」

 孫の見舞いがよほど嬉しかったのだろう。祖父は顔をくしゃくしゃにして笑って見せたあと、

「なあ、哲雄、お前の母親は…あれは鬼やぞ」

 と声を落とした。私の母親は祖父の一人娘である。祖父が彼女を誉める時はわしの娘になり、悪く言う時はお前の母親になるのだった。

「鬼?」

 といぶかる私に眉を寄せて、

「これを見てみよ」

 祖父が引き寄せたテーブルの上には、家業の印刷屋の売り上げ伝票と帳簿が届いていた。

「わしは、入院してまで働かされる」

 その時、祖父がかすかに微笑んだような気がしたが、私はこの事態を放置すべきではないと考えた。その夜、意見をしようと母親の部屋に行くと、店に明かりがついていて、母親の後姿がせっせと帳簿をつけていた。

「あれ?帳簿は爺ちゃんが…」

「ん、これか?お爺ちゃん少し呆けてな…。お釣りが計算できないし、電話は取り次げないし、最近では障子に何か書いてあるなんて言う。呆けは環境が変わると進むって聞いたから、せめてやり続けた仕事は続けさせなきゃと思って伝票と帳簿を運ぶのだが…」

 だめだ、間違いだらけだと嘆きながら、消しては書き消しては書く母親の努力の甲斐あって、祖父の能力はそれ以上は低下しないで退院した。

 退院後もしばらくは帳場に座り、やがて風邪をこじらせて母親の腕の中で逝った祖父は、やさしい鬼に抱かれて死んだことになる。