蜘蛛の巣

 ちょっと付き合わないかと居酒屋に誘い出しはしたものの、永山はとても安藤に会社を辞めろとは言い出せなかった。それどころか、

「しかし、びびったぞ。何しろこの不景気だろ?てっきりリストラされるのかと思ってな…」

 と心配する安藤に、

「んなわけないだろう。奥さんの体が弱いから、残業も転勤も断って、お前は家庭を守ったんじゃないか」

 仕事人間やってると、そんな生き方をしているお前が無性にうらやましくなるんだと、永山は嘘をついた。

「ところで明代ちゃんだっけ、娘さんがいただろう?」

「あれはきっと生まれて来るとき母親の健康を吸い取っちまったんだなあ…元気だけが取り柄のような娘になって、春には結婚だ」

「それはおめでたいじゃないか!」

 改めて乾杯だと、さらにビールを二本空けながら、永山は追い詰められていた。

「君の課で一人辞めてもらうことになった」

 誰もが納得する人選を頼むよ…という人事部長の言葉は、暗に安藤を指していると理解していた。確かに安藤以外に納得できる人選はないが、永山が親友を切れるタイプではないことぐらい部長には分かっていたはずだ。

「え!ということは、まさか初めからおれを?」

「何だ、何か言ったか?」

「いや、何でもない。そろそろお開きにするぞ」

 地下鉄へ下りてゆく安藤と別れて、永山は私鉄の駅のトイレの一番隅に立った。目の前の壁に小さな蜘蛛が巣をかけていて、そのすぐ傍らに小指の爪くらいの茶色い蛾が貼り付いていた。

(こんな危険の傍で、よく平気でいられるもんだ)

 永山がため息をつくと、その風に驚いて飛び立った蛾が、蜘蛛の巣にひっかかって激しくもがいた。蜘蛛は素早く獲物に飛びかかり、やがて蛾は動かなくなった。永山は用を済ませても、その光景からしばらくは目が離せなかった。