パワハラ

令和02年04月27日

 朝倉俊彦はここひと月で体重が五キロほど減った。食欲が落ちて眠れなくなり不整脈が始まった。原因は分かっていた。

「朝倉、給料は振り込まれたか?先月も先々月も販売実績がないのに給料が入るということは、お前は仲間の売ったクルマの利益で食っているということになる。分かるだろ?」

「済みません」

「そういうの、何て言うんだ?朝倉、言ってみろよ、ん?」

 黙ってうつむいている俊彦に腹を立てて、

「てめえ、口も利けねえのか!給料泥棒って言うんだよ!」

 この春、店長として異動して来た真鍋は、大声でそう言って事務所のデスクの側面を力任せに蹴った。大きな音が響き渡り、仲間たちは一様に身を縮めてパソコンの画面に顔を近づけた。

「ノルマも達成しないで出勤できるお前の根性には脱帽だぞ」

「会社からは言えないけど、お前が辞めると言うなら大歓迎だ」

 真鍋は給料日の度に俊彦を口汚く罵ったあげく、

「お前、明日から外回りしろ。昔は飛び込みで営業したもんだ」

 とうとうフロアでの販売を禁止した。

 インターホンを鳴らしても、セールスと分かるとドアを開けてはくれない時代である。当てのない戸別訪問でクルマが売れる可能性はない。営業の舞台を取り上げておいて、実績の上がらない俊彦を真鍋は責め続けた。

 やがて不眠と不安が限界に達した俊彦が、たまりかねて近くのメンタルクリニックを受診すると、事情を聞いた主治医は、

「それは典型的なパワハラですよ。休職の診断書は書きますが、その前に受診と休職について店長に相談して、やり取りを録音するのはどうですか?できませんか?」

 と聞いた。相談したからといって店長のパワハラが止まるとは思えない。それよりも録音を上層部に聞かせて、パワハラとして改善を求めるべきだと助言されて夢中で頷く俊彦の背中に、

「あ、上層部との会話も録音するのですよ」

 主治医はそう付け加えた。

「受診?休職?朝倉、お前何考えてるんだ!退職してくれれば新しい社員を雇えるんだからな。少しは会社のこと考えろよ」

「このまま辞めれば、お前が次に就職したい職場からの問い合わせには優秀な社員だったと答えてやる。だが病気休職なんかしてみろ、あいつを採用するのは会社の損失だと伝えるからな」

 店長の罵声は明瞭に録音できた。

 それを本部長に聞かせてパワハラの被害を訴えると、

「この程度でパワハラというのはどうなのかなあ。こういう言い方をするのは真鍋くんの個性だよ。現に君以外に彼をパワハラで訴えて来る社員はいない。私は君の方が問題だと思うがね」

「受診は私も勧めないよ。経歴に傷がつく。精神を病んで休職の末に退職という事実はついて回るからねえ。辞めてから受診するのなら会社の知らないことだ。履歴に傷はつかない」

 本部長の会話も録音ができた。

 俊彦は『うつ病のため一か月程度の休職を要する』という診断書で病欠に入ったが、不眠、不整脈を中心とする症状は一か月を超えても収まらなかった。うつ病はパワハラが原因であるという主治医の意見と録音に、詳細な日記を添えて、会社の証明のないまま労災給付が労働基準監督署に直接請求された。

「朝倉俊彦さんの病気休職について調査したいのですが…」

 突然の労働基準監督署からの電話に店は凍りついた。