房子の気遣い

令和02年05月04日

 週に一度、グループホームに面会に行く度に房子の認知症は進み、最近では懐かしい写真を見せても、写っているのが自分であることが認識できなくなった。

「お義母さんたら、自分の写真が分からないのに、あなたを見るとすごく嬉しそうよね」

「おれのことだけは不思議と分かるらしい」

「ずっと二人きりの母子家庭だったのだから、あなた頼りなのは分かるけど、顔だって体型だって子どもの頃とは別人よ」

「来年はおれも七十だからな。確かに別人だ」

 房子は陽子が謙一の妻であることも恐らく理解していない。

 別れ際には謙一に手を伸ばして必ず握手を求めるが、陽子には視線も送らない。謙一はそれが心苦しかった。

「おふくろの記憶には、もう、おれしかないのかな…」

「全部忘れてもあなたのことだけ覚えているなんて奇跡だわ」

 これまでは回想療法のつもりで古い写真を持って出かけたが、

「写真よりこれの方が脳を刺激するかも知れないわよ」

 陽子はどこからか尋常小学校の国語の教科書の復刻版を手に入れて来た。

「サイタ、サイタ、サクラガ サイタ」

「コイコイ シロ コイ」

「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」

 リビングの大きな丸テーブルの所定の席で、陽子に促されては房子が読む懐かしい教科書の記述に、周囲の入居者が集まって来た。みんな同じ教科書で育った昭和一桁の世代だった。

「お義母さん、イキマセウを行きましょうとよく読めますね」

 陽子が感心すると、

「昔はテフテフと書いてちょうちょうと読みましたよ」

 旧い記憶だけは鮮明な栗山喜朗が教科書を覗き込んだ。

「ところで、この、タラウサンというのは何と読むのですか?」

 陽子の質問に、

「それは太郎さんですよ。イチラウ、ジラウ、サブラウ、シラウ…昔は子だくさんでした」

 得意そうな芳郎の答えを受けて、

「ところで皆さんは何人きょうだいでしたか?」

 職員が巧みにきょうだいの話題に発展させた。

「私は七人きょうだいの真ん中でしたよ」

 芳郎は自慢気に言ったが、

「七人ですか!名前は言えますか?」

 と尋ねられて、う~むと黙ってしまった。

「久子さんは何人きょうだいですか?」

「私には姉と兄と妹がいましたが、みんな死んでしまいました」

「四人きょうだいですか、四人でも今じゃ多い方ですよ」

 房子さんは?と聞かれてとっさに答えられない様子に、

「おれたちは昔から二人家族だよね」

 謙一はそう言って笑ったが、陽子の顔に一瞬険しさが走った。陽子は家族のつもりでいる…。だから、お付き合いではなく自分の意思で房子に会いに来る。謙一に他意がないことは分かっていたが陽子は寂しかった。それを房子が察したのだろうか。

「それじゃ、おふくろ、また来るからね」

 いつものように別れの挨拶をする謙一の手を握った房子は、珍しくその手を陽子に差し出して縋るように見た。

 痩せた房子の手は思いがけないほど温かかった。