残酷なステージ

令和02年05月07日

 最近光彦は明け方に同じ夢を見る。夢の中で光彦はステージにいた。エレキギターの音、ドラムのリズム、ライトの熱、割れるような拍手と歓声…。自分が作詞作曲した歌が千人を超える観衆を熱狂させている。アンコールに応えて再び中央のスタンドマイクに進み、とっておきの曲を歌おうとすると、突然、声が出なくなる。唇は動いているのに声帯が全く震えない。やがて歓声が戸惑いの静寂になり、静寂が怒声に変わる頃、

「背中にぐっしょりと汗をかいて目が覚めるんだよ」

 行きつけのスナックで、バンド仲間の早川に打ち明けると、

「それって、もう一度ステージに立てってことですよ」

「ステージ?俺はもうすぐ七十だぞ…」

「言い換えれば六十代最後の年じゃないですか。みんな待ってるんですよ、永田光彦の生の歌。それが夢に出て来るんだと思います。年内にコンサートをやりましょう。やると決めて準備を始めれば、そんな夢見なくなりますよ」

 まさか天下の永田光彦が、このまま終わるつもりじゃないでしょと言われて決意した。

「そうと決まれば昔のメンバーじゃなくて、油の乗ったミュージシャンを集めましょう。プロデュースは私がやります」

「あれ?早川、お前は?」

「私は降圧剤服薬中ですからね。二つ年下ですが光彦さんのような訳には行きません。その代りこれまで築いた人脈を駆使して最高のステージを作りますよ」

 光彦の七十歳の誕生日に合わせて千人規模の会場を押さえた。満席になればリハーサルの費用も十分に回収できる。

 新曲の制作に取りかかると、光彦は見違えるように元気になった。例の夢も見なくなった。

「そこ、もう少しアップテンポにしてベースをきかせようか」

「ここんとこ、ちょっとだけドラムを控えめにしよう」

 一流の演奏家たちとの音作りも楽しかった。

 高音域が昔のようには出ないので、全体に半音下げはしたが、声帯は二時間のリハーサルに耐えた。太った体型に合わせて、絶頂期のトレードマークだったダメージジーンズと革ジャンを新調した。販売用にCDを仕入れた。

「チケットは完売です。生放送するテレビ局も決まりました」

 これはファイナルじゃなくて、再出発になるかもしれませんよ、と言う言葉に光彦は体に生気がみなぎるのを感じた。

 人間は年齢に拘束されるべきではない。心のままクリエイティブに生きればいいのだ。

 当日、本番前のライトや音響や立ち位置の最終打ち合わせを済ませた光彦は、列を成して入場する観客をホールの二階から眺め下ろして言葉を失った。並んでいるのは高齢者ばかりだった。気を取り直してヒット曲を歌い、新曲を披露し、最後のナンバーを終えた。予定調和のようにアンコールに応えて代表曲を歌った。会場はそれなりに盛り上がったが、往年のものとは質が違っていた。ホールの販売コーナーでCDの購入者に握手をして色紙にサインをした。みんな一様に青春時代のアイドル歌手の手を握って興奮していたが、感極まった白髪の男性の言葉が光彦の胸を貫いた。

「いやぁ、やっぱり年を取ると懐メロはいいね!」

 頑張ってよと立ち去る男性の背中を、次の人のサインを忘れて光彦は呆然と見送った。