幸福の民度

令和02年05月16日

 ドミニカ共和国にはニューヨークで一泊して小型飛行機に乗り継がなくてはならなかったが、手違いが発生して、三人の教授のうち宮田淳一だけがエコノミークラスに乗せられた。

「宮田さん、気の毒でしたね」

「一番若いからでしょうか…」

「本人は気分が悪いでしょうが、JICAに何か基準があるのでしょう、勤続年数とか、教授歴とか」

「周囲に日本人はきっと彼一人きりですよ、心細いでしょうね」

 と同情はしたものの、箕浦幸枝教授と坂崎亮太教授が乗り込んだビジネスクラスのシートは、間隔が広い上に、隣との視界を遮るちょっとしたシールドが上部についていて、私語もできなかった。周囲の乗客たちは一様にスーツを着こなして、眠っているかパソコンに余念がない。

(何だ、結局ビジネスクラスの方が孤独じゃないか)

 坂崎がアーム脇のボタンを操作すると、目の前に個人用の映像スクリーンが降りて来た。別のボタンを押すと、ゆったりと腕を置ける広さの机が現れた。装着したヘッドホンからは、イヤホンとは比べ物にならない音質の音響が楽しめた。はるばるカリブ海に浮かぶ小国の大学で、日本の福祉の現状を紹介するために、政府機関から招聘された講師だからこその贅沢だった。

 与えられた九十分の講義時間うちの半分はスペイン語の通訳に割かれてしまう。四十五分の講義でいったいどれほどのことが伝えられるだろうか。

「歴史も経済も宗教も民族性も全く違う国で、日本の制度や機関を紹介しても意味ないでしょうね」

 事前の打ち合わせで箕浦教授が言った。

 高齢、障害、母子などを原因として貧困に陥った国民の経済的救済から始まった日本の福祉は、今では人権を中心に据えて本人の自己決定を尊重する支援に変化した。

「福祉とは簡単に言えばシアワセという意味ですが、不足を補うという段階を超えて、主体性の保障こそ対人支援の本質であるという価値観をそれぞれの立場で表現しましょう」

 三人の意見は一致した。自立した個人の自由を尊重する姿勢さえ理解すれば目指す方向が見えるはずである。

(さて、四十五分でそれをどう表現するか…)

 考えているうちに、いつの間にか眠りに落ちた坂崎は、突き上げるような衝撃と後方に向かう圧倒的な重力を感じて目を覚ました。とたんにエコノミークラスから歓声が上がった。ビジネスクラスの乗客たちは、表情も変えないでパソコンをバッグにしまい優先的に飛行機を降りた。続いてカラフルでにぎやかな集団が機内から吐き出された。

「宮田先生!」

 二人は人ごみの中に宮田教授を発見して声をかけた。

「何だったんですか?お祭りの様な騒ぎでしたが…」

「それがね、飛行機が無事空港に着いたことを、見ず知らずの他人同士が抱き合って喜んだのですよ。私も隣の席の体格のいい男性に肩を抱かれて思わず涙が出るところでした」

 この国の人は貧しいけれど、幸せを見つける能力は高いですよ。飛行機が無事着陸しただけでみんなであれだけ喜べるのですと、興奮冷めやらぬ宮田の様子に、箕浦と坂崎は複雑な気持ちになった。果たして自分たちにはドミニカの大学で幸福の本質を説くような生き方をしているのだろうか…。