手紙

令和02年06月02日

 リビングのテーブルで便箋に向かう謙一を見て、

「え?おかあさんに手紙を書いてるの?」

 陽子が声をかけると、

「ああ、おれのこと忘れてしまっては淋しいからなあ…」

 顔を上げた謙一の目は真剣だった。

「恐らくアルツハイマー型の認知症ですから、どんどん記憶を失って、十年以内にあなたのことも認識できなくなりますよ。介護サービス利用のためにも、まずは受診を急ぐべきでしょう」

 故郷で一人暮らしをしている房子のもの忘れについて、当時謙一が通っていたクリニックで相談したとき、お気の毒ですが…と前置きをして医師はそう言った。

 あれから七年…。

 医師に言われた通りの診断を受け、三年後にグループホームに入居して今年で四年が経つ。それにしても、専門家だからといって、医師は、母親が十年以内に息子のことも忘れてしまうなどと言う残酷な予後を、得意げに本人に伝えるべきだろうか…。夫はあれ以来、あの老医師の言葉にずっと怯えている。

「家にいる頃から、毎週欠かさず会いに出かけていたんだもの、ウィルス予防のための面会禁止とは言え、半月も顔を見ないでいると、もう何年も会わないみたいな感じがするわよね」

「せめて携帯電話に出られたらなあ…グループホームでおふくろの隣に座って、試しに携帯を鳴らしたら、老眼鏡を耳に当てたのはショックだった」

「職員さんに手伝ってもらって電話には出られても、会話はできなくなっていたしね。でも、おかあさん、私のことは分からなくても、あなたのことは絶対に分かってるわよ。面会に行くとあなたの方を見て嬉しそうな顔をするもの」

「だといいけどな…」

 と言いながら、謙一は手紙の文面に困っていた。記憶のない人にどんな内容を書けばいいのだろう。考えあぐねて、結局、感染予防のための不自由な自宅待機生活を簡単に紹介し、お互いに手洗いとマスクを欠かさないで感染症を乗り切って、元気で再会しようと綴って投函した。

 グループホーム『はるかぜ』では、管理者の尾藤が、郵便受に届いた封筒の宛先と差出人を見て家の中にとって返した。

「房子さん!房子さん!謙一さんからお手紙が来ましたよ!」

 認知症が進んで自宅での暮らしを断念したグループホームの入居者たちには、面会はあっても手紙は届かない。治療法のないウィルスを防止するため、家族の面会を禁じてからというもの、散歩もボランティアの来訪もない単調な生活が続いている。手紙はそんな淀んだ日常にちょっとした風穴を開けた。

 悪いウィルスのせいで会いに行けないので、手紙を書きました…で始まる大きな文字の手紙を、尾藤に手伝ってもらいながら房子はつっかえつっかえゆっくりと読んだ。

『…面会が許されたらすぐに会いに行きますから、元気で待っていて下さい。 房子様  謙一』

 という最後の一行を房子はゆっくりと声を出して読んだ。

「よかったですねえ房子さん、早く感染が収まるといいですね」

 うなずいた直後には、房子の脳は手紙が届いた事実をすっかり別れてしまう。それ以来房子は、尾藤が棚の上に置いておく封筒を見つけては、初めてのように手紙を広げ、一人息子の筆跡をたどって得意げに笑っている。