別人格

令和02年06月12日

 壁のテレビが報じるニュースを見たマスターは、

「大したもんですねえ、私と同い年ですよ」

 カウンターの中でグラスを拭きながら感嘆の声を上げた。

 人気絶頂期にフリーのアナウンサーになり、どんな相手からも本音を引き出す軽妙な話術が買われて、『世相百景』という、国政にも影響力のあるトーク番組のキャスターを長年務めながら、六十五歳になった記念に自分の半生を書き下ろした『別人格』という本を出版するや、文学賞を受賞した。

「天は二物を与えずというのは嘘で、持っている人は何でも持ってますね。成瀬晃一は背が高く、ハンサムで、しゃべりの才能だけでなく文才もある。ひょっとすると楽器が弾けて歌も歌えるかも知れません。奥さんだって女優でしょ?まあ、受賞作の『別人格』を読むと、子供の頃、母親と二人で酒乱の父親から逃げて、その日の食べ物にも困るような過去があるみたいですが、そこがまた彼の魅力になっているんですよね」

 テレビでは成瀬の受賞インタビューが続いていた。

「親と子は別人格ですよ。親は子どもを支配してはいけない。子は親に依存してはいけない。こんな明白なことを実行しないから虐待や家庭内暴力や引きこもりが起きるのです。私は父親とは別人格です。酒を飲んでは暴力を振るう父親を自分の人生から切り離す過程が私を鍛えてくれました。人は皆、等しく死でその人生を終えます。だったら結果に価値を求めるのは虚しいでしょう。価値はプロセスにこそあるのです。描き上げた絵よりも、描くという行為そのものが人生の本質なのですよ」

 成瀬晃一の饒舌な話を聴きながら、

「私だって父親を殴って家出して、結構苦労していますが、こんな店の雇われマスターですよ、やっぱここが違いますよね」

 カウンターの客に向かってマスターが自分の頭を指したとき、

「ち!何が別人格だよ。ダメ親父を乗り超えるのは簡単でも、立派な父親は何やったって乗り超えられやしない」

 店の隅で飲んでいた男が小さくつぶやいて立ち上がった。

 少し遅れて私服刑事が跡を付けていることに男は気付かない。

 同じ頃、『世相百景』の制作会議のメンバーは、

「番組の看板キャスターの受賞だ。明日は特別番組だな!」

 編集デスクを囲んで興奮を隠せなかった。

「親は子を支配せず、子は親に依存せず…か。そんな当たり前のことが問われてる時代かも知れないな」

「確かにうちの息子もアパートに出る気はありません。結局、家賃と家事を親に依存してるんです。まずは親と子が経済的にも人格的にも自立する。そこを中途半端にしたまま大人になるから、この国は家族も学校も職場も政治も、大切な場面になるとどこか相互依存的で、責任の在処が曖昧なのだと思います」

「よし!親と子は別人格。番組ではそれを意識して成瀬さんの過去と日本の若者の現状を編集しよう」

 今夜は徹夜だと覚悟したとき、突然ニュースが飛び込んだ。

「成瀬さんの長男が覚せい剤所持で逮捕されました!」

「え?成瀬真一が?おい、マズいよ、慎一は父親のコネ入社で、うちの制作部じゃないか。特別番組は謝罪番組に変更だぞ」

「いや、こういう場面で本人の出演はないだろう…」

「のんきだなあ、出演どころか降板だって考えられるぞ」

 ま、上の判断待ちだな、と言いながら、スタッフは成瀬晃一も終わったと思っていた。