マナー

令和02年06月30日

 スマホにメールが入る度に、即座に返事を返す夫のことを奈津子は誠実な人だと思う一方で、少し疎ましくも感じていた。

「何だか自分との時間をないがしろにされているような気がして寂しいのよ」

「ごめん。返信を待っている相手を待たせたくないし、後回しにして忘れてしまうのも心配なんだよ」

「分かるけど…人と食事をしていても雑談していても、着信がある度にスマホを取り出されるのは、周囲としては不愉快だと思うわよ。みんな言わないだけで、その点だけはあなた嫌われているかも知れないと思う」

 自分がメールを送ると間髪を入れずに返信をくれる朋久の人柄を奈津子は好ましく思っていたが、同じ誠意が自分以外の人に向くのは愉快ではない。

「そうだ!あなたスマホをポケットに入れてるから着信が気になるのよ。マナーにしてカバンに入れるルールにしたらどう?…で、職場に着いたら見る、お昼になったら見る、家に帰ったら見る…。一日に何度かチェックする時間を決めれば、返信を忘れることはないわ。通話だったら出ればいいんだからね?」

 奈津子の言う通りだと朋久は思った。

 確かに自分はメールの相手を気遣っているように見えて、実はスマホに支配されていたのではないだろうか。そもそも封書だったら、投函したからといってすぐに返事は来ない。急ぐ用件なら直接通話をすればいいのだ。ひょっとしたら朋久自身がせっかちで、自分が送信したメールにはすぐに返事が欲しい気持を投影しているのかも知れなかった。

 奈津子の言う通り、スマホをカバンに入れて持ち運ぶようにしたところ、最初のうちは忘れ物をしているような不安に付きまとわれたが、慣れてしまえば誠に快適だった。慌てて返信するよりも、むしろ丁寧に気の利いた文面が作成できた。

「こうして運転していても、以前ならメールの着信があると気になって仕方がなかったけど、この頃はスマホのことをすっかり忘れてる」

「それでも生活に支障はないでしょ?」

「全然…。奈津子には感謝してるよ」

「よかったわね。それじゃ、今日は私、残業だから、何か適当に食べててね」

 会社の近くでクルマを降りた奈津子は、横断歩道を渡ったところで足がすくんだ。

 心臓が脈打っている。

 明け方までかかって完成させた書類がない。茶封筒なんかに入れないで、どうしてバッグに入れなかったんだろう。後部座席からバッグだけ持ってクルマを降りた記憶がまざまざと蘇った。あの書類がなくては今日の会議で部長は恥をかく。

 会議は十時…。

 奈津子は朋久に電話をかけた。呼び出し音だけが虚しく鳴り続けるだけで朋久は出ない。

(カバンの中でマナーだから着信が聞こえないんだ!)

 会社が見えた。こうなったらタクシーを呼んで朋久の会社に行くしかない…と思ったとき、車寄せに見慣れたクルマが停まっていた。傍らで茶封筒を持った朋久が奈津子に手を挙げた。

「おい、奈津子、これ忘れてあったぞ」

 その日、朋久は十分ほど遅刻した。