留学

令和02年07月08日

 このひと月で、美穂は自分の担当する患者を三人、裏口から送り出した。葬儀社の遺体搬送車が病院の建物の角を曲がるまで、担当看護師と主治医は手を合わせて見送ることになっている。ついさっきまで、その人のために医師は指示を出し、看護師は処置をした。痛みと血圧をコントロールし、呼吸と脈拍を見守って、患者は紛れもなく病室の主人公だった。それが、もの言わぬ遺体として搬送車の荷台に固定されている。

「悔しいですね…先生」

 美穂はこぶしを握り締めていた。

「敵は、目に見えない耐性菌だからね。手術は成功しても、術後の抵抗力のない患者が感染すると手の打ちようがない」

 心臓外科医の塚本の言葉にも無力感が漂っていた。

「外科病棟はハイリスクです。救急車で搬入される段階で無自覚な家族や親族との接触が避けられませんし、緊急手術が多いので時間的ゆとりもありません」

「病院全体でレベルの高い対策を講じて世界から注目を浴びている病院もあるんだがねえ…」

「え?」

「いや、イギリスの話だよ」

 という塚本の一言が美穂の運命を変えた。

 業者や清掃員を含め、総合病院に出入りする多様な人々の中に健康保菌者がいることを考えると、院内感染の予防には、関係者全ての徹底した意識改革と、組織的な取り組みが必要である。美穂は塚本から渡された学会誌に掲載されているイギリスの病院の情報を集め、意を決して看護部長室をノックした。

「留学?」

 イギリスの先進病院で一年間学びたいと、分厚い資料を差し出した主任看護師の真剣な顔を、看護部長は驚いて見上げた。美穂の熱い思いを聞き、ざっと資料に目を通した部長は、

「あなたの目的も熱意も大変立派だと思いますが…」

 留学のために一年間休職を認める制度はありませんと気の毒そうに言った。

「それより姉妹都市のカリフォルニアの病院と、毎年一名、留学生の交換をしているのはご存じでしょう?来年度の枠に申し込んだらどうですか?あなたの熱意は審査の参考にしますよ」

「せっかくですが、私は感染症予防の取り組みを学んで、この病院に活かしたいのです。手術は無事に終えたのに、感染で亡くなる患者さんの無念を思うとたまりません。留学先の病院の内諾も得ています。費用もご迷惑はかけません。一年後の復職のお約束だけ頂きたいのです」

「気持ちは分かりますが、公立病院で働くあなたは公務員ですからねえ。制度がなくてはどうにもなりません。それに…」

 あなたを認めたために、次々と留学休職を申し出る看護師が増えたら困りますからね…と言われて美穂は馬鹿馬鹿しくなった。部長が困るほど、自費で一年間の留学を望む看護師が続出すれば、病院にとってそれば頼もしいことではないか。

 美穂は退職して一年間イギリスで学んだ。

 帰国後、望まれて就職した民間病院は、やがて感染症の予防分野で目覚ましい成績を上げて新聞に取り上げられた。

「あの…かつてうちの病院に勤務していらしたよしみで、感染症予防の研修の講師を務めてもらえないでしょうか…」

 突然依頼して来たのは美穂の知らない看護部長だった。