スピリチュアル・セミナー

令和02年07月14日

 グルと呼ばれる最高指導者は、壇上からゆっくりと参加者を見渡して厳かにこう言った。

「さあ、三泊四日のセミナーが間もなく終了します。わずか一日ですが皆さんは断食も経験しました。生きながら棺に身を横たえて、外の世界を眺めてもみました。自分一人が誰からも口を利いてもらえない孤独も体験しました。砂糖の甘さは書物を読んでも理解できないように、人間存在の頼りなさは体験しないと分かりません。皆さんは、当たり前だと思っていた日常の儚さと、だからこそ尊い、生きているという事実を体験して、いよいよ最終日を迎えています」

 たくさんの患者の最期を看取った過去を持つ老医師は、長い臨床経験の末に、医学を超えた魂の存在を確信して、スピリチュアル・セミナーを立ち上げた。三泊四日コースで八万円と、参加費は高額だったが、医師が主催する宗教色のない体験型の研修は、口コミで次第に人気を得て、生きることに自信を失った中高年の男女で二年後の予約が取れなかった。

「人は闇から生まれ、闇へ還ります!」

 グルの言葉が発せられると同時に、会場の照明が消え、窓という窓に電動のブラインドが下りた。等間隔で直立不動の姿勢を保っていた十五人の受講生は、突然、異次元の世界に突き落とされた。人は完全な闇の中では、位置情報を失って、立位を保つことすら難しいらしい。数人の受講生がバランスを失って次々と倒れ込んだが、山脇里美もそのうちの一人だった。

 目を凝らしても何も見えない空間の中で、両手に伝わる床の感触だけが、かろうじて里美と現実を繋いでいた。それは、定年直後に始まった夫の引きこもりと、それを巡って繰り返される夫の両親の不和の中で、なす術のない里美の状況を象徴していた。友人に勧められて参加するようになったスピリチュアル・セミナーで、まずは里美自身の魂を安定させることが、山脇家の運命を好転させると里美は信じるようになった。

 …と、その時、会場にチベタンベルの清らかな音が鳴り響いた。闇が澄んだ金属音で満たされた。音が加わるだけで暗闇はわずかに質量を持った。

 さらにそこに蝋燭の炎が加わった。グルが掲げる一本の蝋燭の火は、暗闇の中で嘘のようにまばゆく瞬いた。

 視界はそれだけで安定した。視覚に焦点が与えられるだけで空間は方位を持ち、受講生たちは体のバランスを回復した。

「皆さんは、この炎のようでありなさい」

 グルのよく通る低音が里美を鋭く貫いた。

 明々と闇を照らす力は里美にはなくとも、闇に灯る小さな焦点にさえなれば、夫も両親も方位を得てそれぞれの道を歩き出すに違いない。グルが体験させたがっている魂の存在とは、懸命に命が燃えるときに発する炎のことだったのだ。

 これまで何度このセミナーに参加したことだろう。参加する度に体験が深まって行く実感があった。これまでにない充実感に満たされて帰宅した里美は、しかし、玄関を開けたとたんに信じられない光景に言葉を失った。

 割れた花瓶を片手に立ち尽くす夫の傍らで、父親が頭から血を流して震えている。その父親を庇うようにして里美を睨みつけた母親が取り乱した声でこう言った。

「四日も連絡もせずに嫁が家を空けて、どこへ行っとった!」