トリアージ

令和02年07月21日

 最後の患者が帰るのを待ち構えていたように、待合室に残っていたジーンズの男がゆっくりと受付に近づいた。

「動くな、静かにしろ!」

 男は黒い革ジャンのポケットから取り出したピストルを受付の事務服の女性に突き付けて、押し殺した声でそう言った。ニット帽を被り、黄色いサングラスから下をマスクで隠している。

「これを見せて全員を集めろ!声を出したらこいつを殺す」

 男が広げたA4のコピー用紙には太いマジックの文字で、

『静かに待合室に集まって下さい』と書いてある。

 受付の看護師が診察室と処置室を回って紙を見せると、

「え?何?静かにって、どういうことなの?」

「!!!」

 女医と年配の看護師二人が待合室の様子に驚いて声を上げるより早く、

「携帯電話を渡せ!」

 男は有無を言わせぬ声で片手を差し出した。

 あとは、あっという間の出来事だった。

 全員が両手を結束バンドで結わえつけられた上に、さらに別の結束バンドで廊下の手摺に固定された。

 事務服の女性に命じて、クリニックにある全ての現金をバッグに詰めた男は、

「鍵!」

 玄関の鍵を持って来た事務服の女性を最後に手摺につなぐと、ドアに外から鍵をかけた。

 男はクリニックの駐車場に停めてある乗用車の助手席にバッグを放り込み、勢いよく発進して国道に出た。

 これでもうあいつらから追われることもない…。

 ヤミ金の恐怖からようやく逃れることのできた興奮で、大きな交差点に猛スピードで進入した男の車に、左から来た4トン車が激突した。


 二台の救急車が同時に着いた救命救急室は混乱した。

 一台の救急車から下ろされた患者は、脳出血の証拠のように髪の毛を吐瀉物で汚した高齢の女性で、付き添って来た初老の息子夫婦が、何やら大声で叫びながら、救急室に運び込まれた。もう一台の救急車の患者は交通事故の被害者で、頭部からの大量の出血が顔面を染め、右の肩関節を骨折しているのだろう、右腕が不自然な形に曲がっていた。

「意識は?」「血圧は?」

 結果を聞いた医師は、並んだ二つのストレッチャーの患者に、

「聞こえますか?」「聞こえますか?」

 と声を掛けながらペンライトで瞳孔の反射を調べ、聴診器で鼓動を聞いて、

「男性の方を運んで下さい」

 看護師たちに指示をした。

「待って下さい先生、おふくろは先が短いから後回しですか!」

 息子夫婦が血相を変えて抗議した。

「この病院に手術台は一つです。トリアージといって、年齢ではなく延命の可能性で判断します。残念ですがお母さんは…」

「先生!大切な人なんです。おふくろを助けてやって下さい」

 そのとき患者の所持品をまとめていた看護師が言った。

「この人、いい年してモデルガンなんか持ってますよ」

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