暗証番号

令和02年08月10日

 遺品の日記を持参して、美津子は市の法律相談に出向いた。

「うむ…これが事実だとしたら、ひどい話ですね」

 若い弁護士は日記の該当ページを読み終わり、

「お母さんは沙紀さんの変化に気が付かれなかったのですか?」

 冷徹な視線を美津子に向けた。

「独り暮らしでしたから全然…。電話では元気そうでしたし…」

「大人も子供も、いじめられる人って、そうなんですよね…自分の窮地を過度に隠します。…で、発見は?」

「会社の人が電話をしても沙紀が出ないものですから、アパートを見に行って下さって…」

 膝の上で握り締めた美津子のこぶしが震えている。

「いたずらを笑って受け入れているうちに、だんだん耐えられなくなって、ま、その時点からいたずらはいじめになる訳ですが、それまで受け入れて来た流れがありますから本人は抗議をしません。抗議しないので本人の辛さに周囲も気が付かないで限界が来ます。たいていは最悪の事態になる前に眠れなくなり、食欲が落ち、痩せて元気がなくなり、会社に行けなくなって、精神科で鬱病の診断を受けて療養するパターンが一般的なのですが、沙紀さんは受診しなかったのですね?」

「衝動的だったんだと思います」

「これまでにこういうことは?」

「中学のときにいじめられて、突然、不登校になりました。そのときは先生に勧められて精神科のクリニックで安定剤を処方されていました」

「そうですか…。困りましたねえ…」

「え?」

「いえ、制度的にはご本人の精神が脆いと解釈されかねません。つまり、いじめが沙紀さんの精神を壊したのではなく、精神が脆いからいたずら程度で極端な行動を取ってしまったと…」

 美津子は唇を結んで弁護士を睨みつけた。

「い…いや、訴訟になった場合、相手側はそう主張するという意味ですよ。お母さん、ここはひとつ冷静に」

 弁護士は初めて人間的な表情を見せた。

「中学の不登校を乗り越えたあと十年ほどは特に問題なく過ごして来た訳ですから、やはり大切なのは日記の記述を裏付ける証拠ですね、もちろん証人でも構いません」

「みんな一緒になって沙紀を笑っていたのですよ。証人になってはくれないてしょう」

「ま、それはその通りですが、いじめの事実を証明するには日記だけではどうしても不十分なのですよ」

 何とかして証人を探して下さいと言われて、美津子はしょんぼりと市役所を後にした。他人が裁くということはこういうことなのだ。

 沙紀…。

 位牌の前に沙紀のスマホがある。これも解約しなければ…。

 電源を入れると暗証番号の欄が立ち上がった。

 指紋認証ではないのだ。

 沙紀の誕生日を入れたが開かない。

 まさかと思いながら、美津子の誕生日を入れると開いた。

 ラインにはこれまで沙紀が受けたいたずらやいじめの数々が全て動画で残っていた。