一旦停止違反

令和02年08月22日

 病院から連絡を受けた道彦は、

「妻が事故に遭いました。今日は早退させて下さい!」

 投げつけるように係長にそう言うと、返事も聞かないで車を走らせた。

「今夜は奮発して焼肉よ。ビールはあなたお願いね!」

 紀子とは今朝、明るく手を振って別れたばかりではないか。

「携帯はロックがかかっていましたが、バッグにあなたの名刺がありまして、奥様がうわごとのようにその名前を呼んでいらっしゃるので、ご主人に違いないと思って会社にかけてみました。連絡がついてよかったです。すぐに来て下さい」

 予断は許さない状況ですという病院の職員の言葉だけがエンドレステープのようにぐるぐると回っていた。

 国道は混んでいた。

「急ぐときは国道はだめだって言ったじゃない」

 紀子の声が聞こえたような気がした。方向音痴の道彦にとって、紀子は助手席に乗せると、ナビよりも頼りになった。

 迂回しよう。

 信号を左折して生活道路に入った。

 昼間の住宅街は静まり返っていた。

 今夜は焼肉よ。ビールはあなたお願いね。予断は許さない状況です。奥様はうわごとのようにあなたの名前を呼んでいらっしゃいます…。

 紀子…死ぬな、紀子死ぬなよ…。

「私、家出して来た…」

 結婚を父親に反対され、小さな荷物一つで道彦のアパートにやって来たときの紀子の真剣な顔が浮かんだ。その顔が、

「ごめんね、こんなことになって」

 流産の知らせで駆け付けた道彦に謝る泣き顔になった。

 わずか五年余りの結婚生活だったが、二人の心にはそれなりの歴史が刻まれていた。

 スムーズに迂回を終えて、再び国道に出ようとスピードを落としたところを赤い旗が遮った。

「ちょっと済みません。ここは一旦停止ですが、見落とされましたか?」

 二人の若い警察官の一人が行く手に立ちはだかり、もう一人が運転席の窓ガラスを開けさせた。

「妻が事故に遭ってすぐ来るように言われてるんです」

 後日必ず出頭するのでと必死に懇願したが、

「はいはい、そういう人結構いらっしゃいますよ。すぐ書類を作りますのでね、免許証を見せて下さい」

 十分ほどかかって青い切符を渡された。

「気を付けて下さいね」

 という声を無視するようにして駆け付けた救急の処置室で、道彦は息を引き取ったばかりの紀子と対面した。

「最期まであなたの名前を呼んでいらっしゃいましたよ」

 あと五分…いえ、二分早ければという言葉が憎しみになった。

 通夜が済み、葬儀が済み、たくさんのお悔やみの言葉をかけられる度に憎しみは具体的になった。

 青木正俊…。切符に書いてある警察官の名前を道彦は呪った。

 警察署を訪ねて来た若者に、交通課の警察官がいきなり刃物で刺されたというニュースは、それから間もなく全国を駆け巡った。