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サイレン
令和02年09月01日
朝の通勤時間帯に片道六十キロ足らずを一時間以上かけて通勤していると、職場に到着するまでに、同じ場所で同じ人たちに出会う。
おしゃべりに興じる若い母親たちの足元で、幼稚園バスを待つ制服姿の園児たち。駅の近くの駐輪場から思い思いの自転車を引き出して、同じ方角に向かって走り去る高校生の群れ。ガラガラとけたたましい音を立てて一気にシャッターを押し上げる和菓子屋の女性店主。決まった道で必ずすれ違う、厳しい表情の市バスの運転手…。
いつもなら見慣れた景色の中を快適にハンドルを握っているはずの洋介だったが、その日は違っていた。
額に脂汗が滲む。一定の間隔を置いて、下腹部に痛みが押し寄せる。すぼめた両膝に力を込めてやり過ごしてはいるが、ひとつ間違えるとズボンの中で大参事が起こりそうだった。
朝の味噌汁のアサリが当たったのだろうか…。
コンビニはない。スーパーは開いていない。公衆トイレは見つからない。しかし、まさか道端でする訳にはいかない。次の信号まで…次の信号まで…。とりあえず次の信号までを目標に、洋介は歯を食いしばって運転をしていたが、それも限界だった。
保険会社のビルと背の高いマンションに挟まれて、取り残されたように平屋の民家がある。いつものように玄関先で小柄なお婆さんが掃き掃除をしていた。
「あの…済みません…」
目の前に突然停まった白い乗用車から男が降りて来て、
「申し訳ありませんが、トイレを貸してもらえませんか」
お婆さんは、一瞬怯んで背広姿の中年男を見上げたが、苦痛にゆがむ顔と額の脂汗ですぐに事情を察し、
「どうぞ、どうぞ、狭いトイレですが、遠慮なくお使い下さい」
親切に案内してくれた。
窮地を脱した洋介は、次の朝、少し早めに家を出て、掃き掃除をしているお婆さんに改めてお礼を言い、ゼリー菓子の詰め合わせを渡した。
「あれまあ、当たり前のことしただけですのに、こんなこと…」
「あんなに困ったことは初めてでした。お婆さんが掃き掃除をしていてくれて助かりましたよ。お一人でお住まいですか?」
「はい。子どもが授からず、爺さんに死なれてからは一人でこの家を守っとります。ご近所はみんな土地を売って、この辺りはビルばかりになりましたが、爺さんと建てた家ですからねえ」
それ以来、洋介は掃き掃除をするお婆さんの傍らを軽くクラクションを鳴らして通り過ぎるようになった。気が付いて嬉しそうに手を振るお婆さんの姿がルームミラーの中で小さくなって行くのを見ると、洋介は一日を暖かい気持でスタートできた。
季節が変わった。
お婆さんは街路樹の枯葉を掃くのに忙しくなったが、なぜかその日は姿がなかった。通り過ぎた洋介は、急に胸騒ぎを感じた。朝の掃き掃除はお婆さんの長年の日課ではなかったか。
洋介はUターンしてお婆さんの家にとって帰した。
「お婆さん!」
洋介は、玄関先で箒を持ったまま倒れているお婆さんを発見して慌てて携帯電話を取り出した。かすかに聴こえる懐かしい夫の声をかき消すように、お婆さんの耳に、救急車のサイレンの音が近づいて止まった。
終