湯治屋の板長

令和02年10月06日

 温泉が出るというだけで、見るべき観光資源もない山あいのホテルが、引きも切らぬ宿泊客で繁盛していると聞いて、

「予約してくれ。二泊がいいだろう」

 史郎は槇子に命じて『湯治屋』という温泉ホテルに夫婦で出かけて行った。史郎が経営する旅館は、有名な温泉地にあるにもかかわらず客足が落ち、従業員の確保にも苦労している。一つでも経営の参考になることがあれば…と史郎は期待していた。

 案内された時間より二十分ほど前に地下鉄の駅を出ると、そこには既に三十人に近い高齢者がたむろしていて、

「みなさん湯治屋ですか?」

「はい。カラオケ仲間五人で季節に一度は湯治屋に泊まって、お湯と歌をたっぷり楽しんでいます。お女将さんも覚えていて下さって、そろそろという頃にお手紙を下さるのですよ」

「そうですか。私たち、評判を聞いて初めて宿泊するのですが、お料理はどうなのですか?」

「料理はあなた、こんな田舎にどうしてと思うような懐石料理に驚かれますよ。皆さん一緒に食堂で頂くのですが、ビジネスホテルの素泊まり料金で、夢のような料理を味わえます」

「私たちはお互いの誕生日に夫婦で一泊しています。伝えておけば、誕生月の前月には女将から心のこもった手書きのお手紙が届きます。運転免許を返納した身としては、地下鉄を出れば無料バスで送迎というのが何より有難いですよ」

 初対面同士のおしゃべりが飛び交っていた。

 やがて車体に『ホテル湯治屋』と書いたマイクロバスが着き、補助席まで使って午前の便が出発した。

「こういうのって、何だか修学旅行みたいでわくわくするわ」

 史郎に言ったつもりの槇子に、

「随分とうの立った修学旅行ですけどね」

 誰かが答えると、

「何言ってるの、デイサービスだわよ」

 という大声がして、バスは爆笑に包まれた。

 ホテルに着いて史郎は槇子と共に周辺を散策してみたが、何軒かのホテルの玄関をふさぐ雑草と破れ障子が哀れを誘うだけで、見るべきものは何もなかった。

 チェックイン時に館内の説明を受け、ルームキーを渡されたあとは、部屋までの案内もなく放置された。随所に統一感のない安っぽい絵が飾られているが、部屋は掃除が行き届いて清潔だった。窓という窓に、『虫が入るので窓を開けないで下さい』という貼り紙が貼ってあるにもかかわらず、禁を破った不心得者がいるのだろう。湯船には小さな蛾が一匹浮いていた。

「確かにいいお湯ね、体の芯の疲れが取れるみたい」

「何もないから、却ってのんびりするんだなあ…」

 夕食は評判通りだった。決して高価な器でも食材でもないが、味付けと彩りと取り合わせが絶妙で、史郎の旅館でもこういう懐石は出せるものではない。

「あまり美味しいので板前さんにご挨拶をしたいのですが…」

 史郎は女将に言って、その晩、ロビーで会うことにした。

「お待たせしました。こちら板長の葛西誠司と申します」

 女将に伴われて現れた長身の男を史郎は覚えていた。

 三年前、史郎の旅館で働かせて欲しいと言われて面接し、履歴書に傷害罪で服役していた空白があることを理由に採用を見送った男だったのである。