起業

令和02年10月15日

 創立五十周年を祝う式典で、頼まれた記念講演を済ませて帰った亮一は、その晩、恵理子に会場の様子を興奮して報告した。

「工場といっても立派な大会議室があってな、四方に紅白の幕が張り巡らされて、そうだなあ…三百人はいたんじゃないか?」

 最前列には胸に赤いバラのリボンをつけた礼服姿の役員たちがずらりと並んでいた。続くパイプ椅子には百人を優に超える年配の女性たちが座り、OB席と書いた立札が、かつて彼女たちがこの工場で自動車のシートを織っていた工員たちであることを示していた。さらに後ろに陣取った大勢の男女の群れは、現在会社で働いている工員であり事務員たちだった。

「…で、うまく行ったの?」

「話は盛大な拍手で終わったけど、そのあとの食事会で二代目の社長から会社の歴史を聞いて、感じるところがあったんだよ」

 先代が村はずれの小高い丘の上に建てた小さなシート製造工場は、モータリゼーションの追い風でどんどん大きくなった。

「当時の村の女性の大半は工場で働いた経験があるんだと」

「まあ、そんなに…」

 という恵理子の反応に亮一は不満らしく、

「あのな、半世紀前に、名もない一人の男がシート製造の工場を建てようと思い立ったのが始まりなんだぞ」

 声が大きくなった。

 丘の上に建てたのは、土地が安かったからに違いない。周囲の反対を押し切って少なくない借金をしたのだろう。失敗したら住む家も田んぼも失って夜逃げをする覚悟で始めた工場で、夜遅くまで働いて信用を得て、その信用でさらに借金をして、少しずつ事業の規模を拡大して行って…。

「な?村の大半の女性が工場で給料を得て税金を納めたんだ。給料は八百屋に流れ、肉屋に流れ、洋服屋に流れて経済を潤した。一人の男の意思が二代に亘って大変な雇用を生み出してる」

 国家は税を取る側だが、富を生むのは起業家の冒険心なのだ。

「おれは、それがとても尊いことだと初めて気が付いたんだよ」

 と亮一が目を輝かせたとき、スマホの着信音が鳴った。

「もしもし…ん?何だ、お前、まだ諦めないのか?」

 亮一の顔がにわかに険しくなった。

「いいか、耕介、経験のないお前が知らない土地でヘルパーステーションなんか立ち上げて、本当に客があると思うか?」

 資本が少なくて済むと言っても事務所は借りなきゃならない。車だっている。看板も必要だ。東京から来た見ず知らずの若僧が立ち上げた事業所に、登録するヘルパーがいるとは思えない。そもそもリサーチしてヘルパーは博多が手薄だからって、三十五歳まで働いた一部上場の会社を辞めて、妻と子を残して、わざわざ危険を冒す必要があるのか?お前には二人の子どもの将来がかかっているんだ。それに軌道に乗ったら呼び寄せると言っても、子ども二人抱えて年単位で母子家庭になる咲子さんの気持ちになってみろ。

「お父さんは反対だ!保証人にもならないからな」

 亮一は半年ぶりに再燃した長男の起業欲に辟易して電話を切った。

「まったく、いい年をしてあいつは考えが甘いんだから」

 起業なんておいそれと成功する訳がないんだと息を荒げる夫の顔を恵理子が目を丸くして見ている。