被害届

令和02年10月23日

 硬貨のようなもので新車の横腹に長々とつけられた傷は、黒いボディーに深々と悪意を刻み付けていた。

 玄関のドアの鍵穴には、接着剤を三度流し込まれて、結局その都度、鍵そのものを交換しなければならなかった。

「誰かに恨まれる覚えはないのですか?」

 警察官に聞かれたが、孝彦にも夏子にも心当たりはなかった。

 勧められるままに、暗闇でも映る監視カメラを取り付けた。

 取り付けて六日目に、久しぶりに玄関の鍵が壊れた。

 映っている映像を見た二人は、

「え?これって…」

 わが目を疑った。

 帽子を被って顔を隠してはいるが、玄関のドアの前に屈んで、鍵穴に接着剤のチューブを差し込んでいるのは、間違いなく隣家の主婦の富川圭子だった。咄嗟に隣家トラブルという言葉が浮かんだ。しかし何も思い当たらない。中古の建売住宅を買って五年になるが、会えば微笑んで挨拶を交わす関係ではないか。

 直接問い詰めてやるという孝彦の大声に驚いて、ベビーベッドの中の慎吾が泣き出した。

「被害届を出したのだから、ここは警察に任せるべきよ」

 夏子がなだめて警察に電話した。


 取り調べ室で富川圭子と向かい合った松沢刑事は、島崎夫妻から預かった監視カメラの映像を見せて、

「ここに映っているのは、あなたに間違いないですね?」

 確認を求めると、圭子は観念したように無言でうなだれた。

「これからもお隣同士として生活しなければならないのですから、穏便に解決したらどうでしょう。島崎ご夫妻は、理由が判って損害が弁償されれば、被害届を取り下げてもいいとまでおっしゃっていますから、ここはひとつ正直に…ね?」

 促された圭子は、しばらく沈黙していたが、

「実は…先に嫌がらせをしたのはお二人なのですよ!」

 押し殺したように話し始めた。

「引っ越しの挨拶で孝彦さんは、いよいよローンに縛られた人生が始まったと笑いましたが、私は十年前に夫が死んだからローンがなくなったのです。あんな言い方をされるのは心外です」

「夏子さんだって、スーパーで出会うと、物価が高くて困ると嘆かれますが、私の預金の大半は夫の事故の補償金と生命保険金です。ああいう言い方で非難される覚えはありません」

 記録を取りながら松沢は耳を疑った。圭子は島崎夫妻のごく普通の日常会話を自分に対する嫌がらせと受け止めている。

「盆暮れには決まって安っぽい故郷のお土産を頂きましたが、身寄りのない私を馬鹿にしているのは明らかです」

「慎吾くんが生まれてしばらくは、子どものいない私に聞かせるために、頻繁に夜泣きをさせたのですよ。ひどいでしょ?」

 言いながら気持ちが昂ったのだろう。圭子の膝の上のこぶしは震えていた。化粧っ気のない清楚な印象からは想像できない黒々とした感情が、目の前の瘠せた女性を支配している。

「私は五年間もこんな嫌がらせに耐えて来たのです!」

 突然机を叩いて立ち上がり、圭子は松沢を睨んだ。

 取り調べを終えて、ひとまず圭子を帰した松沢は、

「何があったのか知らないが、これから島崎さんも大変だ…」

 深々とため息をついて調書に向かった。