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令和02年11月02日

 俗に、住めば都と言うが、山に囲まれた田舎暮らしから都会のケアハウスに移り住んで見ると、簡単にここが都と手放しで喜ぶ訳には行かなかった。

 週に一度、移動スーパーで買った食材を、いつも似たような味付けで食べていたことを思うと、食堂で出る三度の給食は確かに有難かったし、六畳一間に簡単な流しとトイレが付いただけのシンプルな個室は、広大な田舎の屋敷に比べると、あっという間に隅々まで掃除が済んだ。

 しかし、同じ訛りの言葉で親しく話すご近所もなければ、雑草を取る庭や畑もなく、ハウスから二キロほど離れた公園までの散歩を午前中に済ませば、朝子は午後から夜にかけての長い時間を持て余さなくてはならなかった。

 市内に住む娘の綾子は優しくて、日曜の度に朝子を連れ出してデパートで一緒に買い物や食事をしてくれたが、平日に娘の嫁ぎ先に出向くのもためらわれた。

「いい?お母さんは八十六歳なのよ、引きこもったら認知症一直線だからね。いつものようにハウスの前からバスに乗って終点で降りればデパートだから、ウィンドウショッピングを楽しんで、お茶でも飲んで帰ればいい。敬老パスでバスは無料だよ」

 綾子は帰りに下りるバス停の名前を書いたメモを渡し、

「携帯電話さえ持っていれば迷っても何とかなるからね」

 と別れ際に大きな声で言った。

 その通りだと朝子は思った。

 認知症になったらケアハウスにも居られなくなる。

 三度目の人生の転機が来たのだ。

 女学校から胸をときめかせて地方都市へ就職したときが最初の転機。縁あって夫の元へ不安一杯で嫁いだときが二度目。そして今、八十六歳にして最後の転機が来た。自由になるおカネは少ないが、年を取ると欲しいものも少なかった。

 楽しめ、楽しめ。公園、デパート、図書館、美術館…。おカネをかけなくても都会には楽しむところはいくらでもある。

 朝子はバスに乗った。敬老パスをタッチすると無料で乗れた。平日の午後の乗客は高齢者ばかりが目立った。窓の外を緑色の電車が追い越して行った。そびえるようなマンションがあったかと思うと、古い長屋の二階の窓で洗濯物が風に揺れていた。

 この年齢になって、遠足に行く子どものように不安と期待で胸が張り裂けそうだった。

 終点で降りて、デパートを中心に二時間ほど散策した。

 都会のコンクリートの群れに慣れると、こんな所に?と思う場所に、水や緑や色とりどりの花が空間を演出していた。

 午後四時過ぎにデパート前の停留所で帰りのバスに乗った。

 綾子が書いてくれたメモで、朝子は降りるべきバス停の名前を確かめた。しかし、録音の女性の案内の途中で誰かが停車ボタンを押すと、「次、停まります」と言ったきり案内は中断した。

 夕暮れのバスは次第に混み合って、始発で座った朝子には電光表示が見えなかった。さらに直前に運転手が案内するバス停の名前は、音量は十分だが独特の発音と抑揚で、とても日本語とは思えないほど変形していた。

「あ!」

 降ります!と立ち上がった拍子にバスがスピードを落とした。

 朝子は仰向けに転んだまま起き上がれなかった。