補聴器

令和02年11月15日

 三十分以上もかけて丁寧に聴力の検査を受けて、

「このタイプがいいと思います」

 耳にかけてもほとんど目立たないようにデザインされた補聴器を提案された。装着すると店内が急に騒がしくなった。

「何だかやかましいようですね…」

「それで皆さんと同じ状態です。お客様の場合、中程度の難聴ですから、聞こえない分、静かな環境だったのですよ」

 人間の脳は慣れると不必要な生活音は意識しなくなりますから、ご心配は要りませんと説明されて遼一は決意した。

 七十歳にして補聴器とは少々早い気がするが、そう言えば遠近両用眼鏡を作るときも似たような思いをした。手元の本が楽に読めるようになって、もっと早く作ればよかったと思った。

 中学生のときに近視用の眼鏡をかけたときも随分抵抗があったが、黒板の文字が読めるようになってみると、どうして長い間我慢していたのだろうと後悔した。

 どうやら自分には生き物としての潔さが欠けているらしい。

 要するに老化が進んだことを認めたくないのだ。

 今はドライヤーで髪をふわりと浮かしたところを、ヘアスプレーで固めているが、やがて透ける地肌は隠しようもなくなるに違いない。歯の隙間が開いて、スルメを食べたあとは糸楊枝片手に歯間の掃除に手こずるようになった。ひげを剃ろうと鏡を見ると、思いがけないところに老人斑ができていたり、昨日までは気が付かなかった太く長い毛が、眉から勢いよく前方に伸びていたりする。眉だけではない。

「ねえ、耳から毛が生えてるわよ」

 そう言って妻にプツッと抜かれる度に、年を取ったのだとつくづく思う。テレビの音量を断りなくリモコンで小さくされて、無神経なやつだと腹を立てたり、最近は小さな声でぼそぼそしゃべる大人が増えたと嘆いたりしていたが、考えて見れば遼一の聴力の方が低下していたのだ。

「キャンペーンですから、両耳で五十一万円の定価のものが、今月中であれば三十六万円でお買い求め頂けます」

 それくらいの金額は妻に相談しなくても用意できた。

 こっそり装着して驚かしてやるつもりだった。

 次の週の水曜日、

「ちょっと図書館で調べものをして来る」

 と言い置いて店に向かい、現金と引き換えに補聴器を手に入れた。装着の練習や、スマートホンのアプリを使った微調整の方法などのレクチャーを受けて、一時間ほどして帰宅した。

 と、家の駐車場に娘の軽自動車が停まっている。

「お、珍しい、美穂が来ているのか!」

「帰ったら手をあらってね!」

 妻は大声で遼一に命じて娘と話している。

「お父さん、退職して五年になるけど、趣味がないから人との付き合いもないし、たまに図書館に行く程度で、毎日大きな音でテレビ観て、まるで生ごみ状態よ。困ったものだわ」

「認知症にでもなったらお母さん大変ね」

「そうなったときのために施設も調べてあるの」

「し!聞こえたらどうするの!」

「大丈夫よ、耳が悪いから。だけど耳が悪い人って長生きするって言うわよね」

 遼一は洗面所で立ちすくんでいる。