面会の罪

令和03年01月11日

 グループホーム『はるかぜ』は民家の佇まいをしている。玄関でスリッパに履き替えて、リビングの引き戸を開けると、息子夫婦の姿を認めた房子が車椅子の上で嬉しそうに笑った。

「今日はカステラにしました」

 謙一と陽子は、いつものように、三時のお茶の時間に全員で楽しめる数のおやつを持参して、台所で昼食の洗い物をしている職員にさりげなく渡した。

 房子の部屋で三人だけで過ごすと密会めいてしまうが、週に一度、入居者も職員も謙一夫婦も一緒に、リビングの大テーブルを囲んで、いつもとは違うおやつを食べれば、話も弾み、表情も和らいで一体感が増す。

 記憶に障害を持つ認知症の高齢者同士は、なかなか会話が成立しない。しかし、おやつまでの二時間ほどを、謙一と陽子がリードして、ゲームや歌や玩具などを媒介にすると、思いがけない反応があった。ドミノ倒し、風船バレー、折り紙、懐メロ、すごろく、間違い探し、塗り絵、声に反応して歩き出す犬のぬいぐるみ…。謙一と陽子が夢中になって楽しむと、房子以外の入居者も加わって、いつもは静かなリビングに笑い声が起きた。

 三時になると、職員に促されてテーブルを囲んだ入居者たちの前に、お茶とお菓子が配られる。

 昔、大工をしていたという高井典三は食べるのが早く、目の前にカステラが置かれたとんに、ぱくりと食べてしまって所在がない。陽子は手つかずの自分の皿をそっと典三の前にすべらせて、目配せをした。

「ん?これ、わしが食ってええのんか?」

 子どものように目を輝かす典三の様子が微笑ましかった。

「あれ?今日も豊子さんの姿が見えませんね?」

 陽子がフロアー主任の杉岡道子に言った。

 毎週欠かさずホームに通って三時のお茶を共にしていると、謙一も陽子も入居者全員の顔と名前を覚えてしまっていた。それどころか、この五年の間に、房子よりあとに入居して体調を崩し、病院に運ばれたきり戻って来なかった数人の入居者の顔も声もくっきりと思い出せた。その都度、新しい顔が入居して、一緒にテーブルを囲んだが、居なくなった人のことを誰ひとり話題にしなかった。触れるのが憚られるのではなかった。ホームの入居者たちの脳には、姿を消した仲間たちの記憶がないのだ。何人もの入居と退居を経験しながら、いつの間にか房子は古い順に数えて三番目の入居者になっていた。

「豊子さんは、お部屋にいらっしゃいます」

 カステラは後でお部屋に運びますねと答えて、杉岡はちらりと管理者の尾藤に視線を送った。謙一と陽子が帰ったあとで、

「困りましたねえ、面会…」

 杉岡がつぶやいたが、尾藤にも名案はない。

「豊子さんは比較的記憶が保たれていて、息子さんの顔を見るのを楽しみにしていらしたので、房子さんの面会を羨んで元気をなくされるのでしょう。しかし謙一さんご夫婦に、お部屋で面会して下さいとも言いにくいですからね」

「あんなにお元気で毎週会いにいらしてたのに、息子さんの癌は進行性なんですってね?」

「し!心配をかけたくないので、入院はご本人には知らせないでと言われていますから、絶対に口にしないで下さいね」

 尾藤は怖い顔をして杉岡をたしなめた。