ピーラー袴田

令和03年02月09日

 職員食堂に行こうとエレベーターを待っていると、

「おい袴田、蕎麦でも食うか」

 同期の内藤正樹に声を掛けられた。

『蕎麦忠』のカウンターで天ざるを食べながら、

「バイパスの計画、難航しているらしいな」

 内藤が耳元でささやいた。計画段階の話はデリケートだった。

「当初の案を望む声があるし、おれもそう思う。しかし今の計画の正当性を証明して実行せよというのが上の意向なんだ」

「聞いてる。トンネル工事の業者が知事の支援者なんだろ?」

「お前、どこでそんな噂を…」

 当初の計画にはトンネルはないからな…と言おうとした内藤が、壁のテレビに視線を移して話題を変えた。

「見ろよ、またピーラーが出てる。あいつ包丁で何でも皮を剥いて見せるユーチューバーだったんだろ?ピーラー袴田」

 ん?袴田って、お前と同じ苗字だけど、まさか関係ないよな?と尋ねられて、正明は自分の弟だとは言えなかった。

 テレビでは弟の和義が、いつものようにTシャツに黄色い袴という珍妙な格好で、何人かの有名タレントに混じって国政について意見を述べている。

「すごい時代だよな。果物や野菜の皮を、とんでもないスピードで器用に剥いて見せながら、世の中は剥いてみないと分からない…と大道芸人のような語り口で、世相を面白おかしく切り取ってユーチューブで話す芸風が受けて、今やワイドショーでオピニオンリーダー扱いだからなあ」

 週刊誌に高級車に乗ってるって紹介されていたけど、あいつ高卒だってな?と内藤は言うが、和義は高校中退だった。保育園の頃にリンゴの皮をきれいに剥いて母親に褒められてからというもの、勉強そっちのけで包丁さばきに夢中になった。

「ピーラーなんてあだ名つけられて、お前、得意になってるんじゃないぞ。みんな馬鹿にしてるんだ。おれと同じ血が流れてるんだからやればできる。頑張って大学を目指せ」

 忠告も聞かないで高校を中退した和義を正明は軽蔑した。

 板前になるのなら調理師の専門学校へ行った方がいいという意見を無視して和義は東京に出た。何年間かは連絡が途絶えたが、突然ユーチューバーとして有名になり、頻繁にテレビに登場するようになった。恐らく年収は正明の何倍にも達してる。

「放っておけ、あいつは死んだと思えばいい」

 と言っていた両親も、今では和義の電話を心待ちにしていた。

 勉強もしないで暇さえあれば包丁を握っていた和義が、メディアで自由に発言しているというのに、一流大学を出て公務員になった正明が、不合理なバイパス計画を命じられて苦しんでいる。不正が表に出れば、担当係長として責任を取らされる。

 その日は残業する気にはなれなかった。

 まっすぐ家に帰っても、帰宅は七時を過ぎていた。

「今、用意するね」

 妻の恭子が台所に立った。

 冷蔵庫から取り出した缶ビール飲む正明を意に介さず、一人息子の達彦がスマホのゲームに夢中になっている。

「達彦、受験生のお前がゲームなんかやってていいのか」

「ぼく和義オジさんみたいになるんだ」

 テレビのバラエティー番組で、ピーラー袴田が、この国の教育の現状を軽妙なピーラー節に乗せて批評している。