怪談

令和03年02月16日

 大学でフランス文学を教えていた経歴を買われて読書教室の指導者を引き受けた山崎真央は、今では受講生と一緒に本を読み進むことに生き甲斐を感じていたが、「先生、私、怪談話は読むだけでも気味が悪くてなりません。別の教材に変えて頂けませんか?」

 こんな要求をされたのは初めてだった。

「澤井さん、色々なジャンルの作品を味わうことも読書会の目的です。四回で終わりますので我慢して頂きたいと思います」

「しかし、気味の悪い作品を読まされるのは、嫌いな食べ物を食べさせられるのと同じです。人権問題ではないでしょうか?」

 ねえ、みなさん?と同意を求められたメンバーがおろおろと目を伏せるのを見て、

「分かりました。私、怪談話の間は教室を休みます」

 教材として配布された小泉八雲の『怪談』を机に残して教室を出た澤井美咲は、足早に事務室へ向かった。

「え?ひと月分の受講料の返金とおっしゃいますと?」

 若い女性事務員の段階では要領を得ず、事務長が別室で険しい顔の澤井美咲と対面した。

「お気持は分かりますが澤井さん、教材が嫌いという理由で休まれても、文化センターには返金する規定がありませんので…」

 事務長は丁重に言葉を選んで対応したが、

「教材変更の申し出を山崎先生が拒否されたのですよ。センター側の理由でしょう。おカネが欲しくて申し上げているのではありませんが、受講しない分は返還の義務があると思います」

 目の前のソファーで足を組む五十代の女性の鋭い視線に、事務長は危険なものを感じた。

 講座終了後、山崎真央を事務室に呼んで、

「澤井という受講生が教材の変更を申し出たそうですね」

「はい。もちろん断りましたが、問題がありますか?」

「いえ、問題が起きなければいいと思っているのです」

「教材選定は指導者の役割です。問題など起きないでしょう」

「ごもっともです。しかし、正しい間違っているではなく、騒いだ者が勝つという世の中です。後期からは教材の書籍名を一覧にして受講生を募集した方がいいですね。使用教材を承知の上で申し込んでもらえば今回のようなことは防げます」

 真央に異論はなかった。後期からは事務長の言うとおりにしようと思ったが、事態は思いがけない方向へ進んで行った。

「事務長!SNSが大変なことになっています」

 ご覧になりましたか?と、若い事務員が見せてくれたスマホの画面には、悪意に満ちた文章が躍っていた。

『読書教室の人権侵害を許すな』。『読みたくない本を読まされるなんて虐待だろ』。『嫌いな本を読まされてカネ取られるなんて最低だ』。『フランス文学の講師に日本の文学が分かるのか』。『一回2000円で本を読むなんて、暇なやつらがいるもんだ』。

 事務長が漠然と感じていた不安が現実になった。

 炎上したSNSには尾ひれがつき、炎は読書教室を超えて、文化センターの在り方そのものにも広がって行った。

 翌日、事務長を呼び出したセンター長は、今回のことは山崎先生に責任がないことは承知しているが…と言い淀み、

「たった一人の受講生の苦情でも無視できない時代だからねえ。読書教室は今期で一旦終了にするしかないだろう」

 苦いものでも飲み下すような顔でそう言った。