点滅

令和03年03月26日

 孫は目の中に入れても痛くないと言うが、ひ孫の洋祐は、両手を差し出す澄子から逃げるように、母親の後ろに回って久しぶりの曾祖母を上目づかいに見た。

「何照れてるの、洋祐、ひいお婆ちゃんよ、忘れちゃったの?」

 真紀は洋祐の背中を押して前に立たせ、

「ほら、しゃきっとして、ぼくは二年生になりましたって、大きな声でご挨拶しなきゃ、できるでしょ?」

 教育熱心なところを披露した。しかし澄子ほど生きて見ると、その熱心さが洋祐の自立を阻んでいるのが分かる。

 二十歳になっても排泄が自立しない人はいないが、早い時期から厳しく排泄訓練をすると、臆病で神経質な性格だけはしっかりと身に着ける。二十歳になっても言葉が話せない人はいないが、早い時期から質問攻めにして発語を促すと、伸び伸びと自分を表現するようにはならない。

「挨拶なんかそのうちできるようになるさ、なあ洋祐、それよか、父さんのお仕事の都合で、二年続けてお正月に会えなんだで、今日はひいお婆ちゃんが二年分のお年玉を持って来たでな」

 ほれ、と澄子が差し出す三千円を真紀は横から取り上げて、

「これはお母さんが預かっておくからね、良かったね、洋祐、お礼を言いなさい、有難うございますって、ほらお礼!」

 洋祐の頭を押さえつけて無理やりおじぎをさせた。

「真紀…お前ね…」

 そんな子育てしていると洋祐をだめにするぞ、と言おうとする澄子を遮って、

「さあ、お寿司買って来たから、食べよ食べよ」

 真紀が台所でお茶を淹れる間、ようやく心を開いた洋祐は、おもちゃ箱からお気に入りのヒーローのフィギャーを両手に一つずつ持ってきて、何やらしゃべりながら戦わせ始めた。

「よし!佑介が赤なら、ひい婆ちゃんはこっちので戦うわい」

 澄子が青いフィギャーを手に取ろうとすると、洋祐はさっと交わして立ち上がり、食卓の周囲を走り回って戦いを続けた。

「さあ、洋祐、お片付けして手を洗いなさい」

 真紀が命じても遊びをやめようとしない洋祐の手からフィギャーをむしり取り、

「それじゃ、佑介は食べなくていい!」

 叱られた洋祐はスイッチが入ったように泣き出した。

 澄子は思い出した。

 晩年、精神機能が衰えて、呼ばれてもぐずぐずとテレビの前から食卓に移動しない姑を、

「おふくろは食べなくていい!」

 澄子の夫は真紀と同じように叱りつけていた。

 その夫も姑と同じ墓の下にいる。

 八十六歳まで生きて来て、澄子はようやく人生のからくりが分かったような気がしていた。

(みんな経験せんと分からんもんや)

 澄子は電車の時間に間に合うように真紀のマンションを出た。

 駅前の広い道路の横断歩道を真ん中まで渡ったところで歩行者信号が点滅し始めた。

(いかん!)

 走ったつもりだったが、気持に足がついて行かなかった。

 転倒してしたたかに膝を打ち身動きできない澄子に向かって、複数のクラクションが襲いかかった。