遺言「麻子の意思」

 夫の車椅子を押して、今日もホスピスの中庭を老夫婦が散歩している。

「私ね・・・」

 本当は愛する人とあんなふうに年を取りたかったのと言って、麻子は寂しそうに笑った。

 そもそもは兄の大造が勧めた見合い相手との結婚を麻子が拒んだのが始まりだった。

「お得意先の御曹司やでえ。何とかこっちが断られるように振る舞うてくれへんか」

 大造の身勝手さにあきれて麻子が直接本人に断ると、

「危うく得意先一軒失うとこやったがな。ほとぼりが冷めるまで店に顔を出したらあかんで」

 麻子は従妹の奈津子を頼って東京に出た。

 友人の紹介で入社した広告代理店で恋をした上司と七年も関係が続いたが、結局男は家庭を捨てられなかった。

 麻子は会社を辞めて独立した。事務所を兼ねたアパートに、社員は自分だけという名ばかりの会社だったが、麻子のコピーセンスは斬新で、二十年足らずで駅前の貸しビルにオフィスを構える広告会社に成長した。大阪には両親の葬儀の折りに帰ったが、その都度言葉巧みに相続を放棄させられて、実家とは財産上の縁も切れた。

 六十歳になった春、乳癌が見つかった。既に全身に転移していることを知った麻子は副社長を後継者に据えてきれいに身を引いた。

「結局、頼れるのはあんただけやったなあ」

「私、麻子さんの生き方、好きよ」

 従妹の奈津子だけが頻繁に見舞っては話し相手になってくれている。この姪に全ての財産を譲りたくて麻子は遺言を書いたが、然るべき人に預ける前に病状が急変した。

 麻子の訃報を聞いて病室に駆けつけた大造は、枕頭台の引き出しに遺書を発見し、

「兄がいてるのに、相続権のない従妹なんかに何で財産を譲らんならん」

 人目につかないところで火をつけた。

 麻子の遺志は炎を上げて燃え上がり、やがて灰になった。