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マッサージ
令和03年06月04日
いつもなら謙一の姿を見ると嬉しそうに笑う房子だが、
「先週うまそうに食べたから、同じのを買って来たよ」
謙一が車椅子の前にしゃがんで、バターとつぶ餡を挟んだ菓子パンを見せても房子は目もくれず、
「私、今日は連れて帰ってもらおうと思う」
いつになく剣呑な目をして謙一を見た。
四年前にグループホーム『はるかぜ』に入居して以来、房子はただの一度も帰りたいと言ったことがない。
「こんないい所で暮らせて、おふくろは幸せだぞ」
と言うと、それが決意なのか、認知症が進んだせいなのか、ほやな、と短く答えるだけで、故郷を懐かしむこともなかった。最近では何を言ってもあいまいに相槌は打つものの、自発的な言葉を聞くことはなくなっていた。
それが今日は連れて帰れと自分から言う。
「どうした、おふくろ、何かあったのか?」
連れて帰れというのは、帰りたいという意味ではなく、ここに居たくないという感情の表現かも知れなかった。
「痛い、痛い、ここが痛い…」
房子は右足の太ももを押さえて顔を歪めた。
「先ほどまでは手を痛がっていらしたのですよ」
職員の一人がこっそりとささやいた。
症状が移って行くのは典型的な心理的反応である。
「最近、母の生活で何か変わったことはありませんか?」
「そう…マッサージが男の先生になったぐらいで特には…」
それだ!と謙一は思った。昔から医者に診てもらうのさえ抵抗を示した房子である。見知らぬ男性に体を触られるのはさぞかし苦痛に違いない。不快の原因を覚えていないだけで、ここに居ることに初めて嫌悪感を抱いた結果の痛みの訴えなのだ。
「部屋で横になろうか、その方が楽だろ?」
「なってみな分からん」
機嫌の悪い房子は、にべもない。
「さあ、私につかまって…持ち上げますよ」
痛い、痛い…片方の手すりに両手でしがみついたために、職員の介助で居室のベッドに横になった房子の体は、くの字に折れ曲がった。折れ曲がった体に布団を掛けて、
「少しは楽か?」
ふくらはぎをさすっても痛みは去らない。思い出話をしても機嫌は直らない。菓子パンを一口サイズにちぎって口元に運んでも口を開かない。手段を失った謙一は、スマホを枕元に置いて、ユーチューブで歌謡曲をかけた。
『王将』『チャンチキおけさ』『哀愁列車』『悲しき口笛』『お富さん』…。曲名も歌詞も覚えてはいないが、昔、繰り返し聞いた曲は房子の気分を変えた。
「死んだはずだよお富さん♪」
…と、房子の唇がかすかに動いた。
謙一も歌った。次第に大きな声になった。
「それじゃ、仕事があるからもう行くけど…」
また来週来るからね、と耳元で言うと、
「気を付けて帰れよ」
房子は体を横にしたままそう言った。
謙一は明日にでもマッサージについて管理者に相談しなければならないと思っていた。
終