明暗

令和03年06月25日

 年末年始は診療所が休みになるから、

「念のために大きな病院を受診しておこうと思います」

 尾藤悦子からの連絡に、慌てて総合病院に駆け付けた謙一が、

「おふくろ、大丈夫か?」

 車椅子の房子を覗き込むと、一人息子の声を聞き分けてわずかに瞼を開けた房子は、すぐに力なく目を閉じた。

「昨夜から三十八度の熱が下がりません」

 尾藤はグループホームの管理者として面倒な受診手続の一切を済ませてくれたが、理解も意思表示も不十分な房子の診察には、身内の立ち合いが不可欠だった。

 運ばれたレントゲン写真を見て、

「これは…肺炎ですね、入院していただいた方がいいでしょう」

 看護師に命じて房子と尾藤を病室に案内させた医師は、診察室に残った謙一と陽子に一枚の用紙を見せて、

「高齢ですから何が起きても不思議ではありません…」

 万一のときは延命を望まれますか?と聞いた。

「いえ、それは昔から母の意思でしたから」

 延命は不要の欄にチェックを入れながら、そんな事態がいつ起きても不思議ではない年齢なのだと謙一は改めて思った。

「一応、東京の子どもたちには入院を知らせておくよ」

 謙一が奈津子と陽輔にラインを入れると、陽輔からは大事にしてねと返事が来たが、奈津子からは電話がかかって来た。

「偶然ね、こっちのお婆ちゃんも風邪だって、お義母さんから連絡が入ったところよ。今年は帰省は取りやめたわ。山梨の自宅で療養だけど、どっちの実家も大変な年末になったわね」

 初詣で両方のお婆ちゃんの快復を祈って来るね…と言って電話は切れた。認知症でなければ謙一夫婦と一緒に自宅にいるはずの房子は、絶食下で点滴につながれた。八十九年の人生で初めて経験する入院が年末で、このままだとお節料理どころか新年の挨拶も病室のベッドの上になるだろう。

 その日は陽子を帰して謙一が病室に泊まったが、房子の喉の音と、二時間おきに見回る看護師の気配に一睡もできなかった。一睡もできない割には謙一にすることはなかった。むしろ、深夜、房子の痰を引く看護師にとって、苦しむ房子の様子を心配そうに見守る謙一の存在は迷惑でしかなかった。

「おれ、泊まるのはよすよ」

 朝十時には夫婦で病室に入り、夜の九時までいて帰宅する生活が始まった。年が明けて房子は快方に向かった。少しずつ食事が許されると、謙一は甲斐甲斐しくスプーンを房子の口に運んだが、度々頑なな拒否に遭った。

「あなただと甘えて我がままが出るのよ」

 陽子が言う通り、看護師が食べさせた方がスムーズだった。

 一週間に及ぶ絶食で、見る影もなく痩せ衰えた房子は、時折り射抜くように謙一を見つめた。謙一は自分でも意識しない心の闇を見透かされているような気がして慌てて目を逸らした。

「何でおふくろは、あんなふうに俺を見つめるんだろう…」

 もうおれのことが分からないのかも知れないな…と健一が淋しそうに陽子につぶやいたとき、奈津子から電話が入った。

「お婆ちゃん、年明けに様子が悪化して、救急車で病院に運んだけど、手が付けられない肺炎で、さっき亡くなったよ」

 暮れに入院しておけば助かったのに…とつぶやく奈津子の声が沈んでいた。