親切

令和03年07月03日

 スーパーの前を通りかかったとき、ミカンのたくさん入ったレジ袋を抱えた小柄な高齢の男性が自動ドアから出て来ると、不安定な足取りで正幸の前を駐輪場に向かった。

 男性はミカンの袋を自転車の後ろカゴに乗せようと勢いよく持ち上げたが、筋力が不足していたのだろう、袋はカゴより低い位置で何かにひっかかって破れ、鮮やかなオレンジ色が周囲に散乱した。正幸は足元に転がって来たミカンを拾おうとしたが、体が動かなかった。

「こら!人のミカンを盗るんじゃねえ!」

 同じくらいの年恰好の男が、正幸の記憶の中で、怖い顔をして睨みつけていた。

「違います。ぼくは拾ってあげようと思っただけです」

 その一言が言えない小学校四年生の正幸を尻目に、

「まったく、今どきのがガキは何するかわからねえ、年寄りが落としたみかんを拾って逃げる気だで」

 みかんを拾う数人の親切な買い物客たちに、男は大きな声でそう言った。

「お兄さん、黙って立ってないで拾ってあげたらどうなのさ」

 足元から聞こえる主婦の声に我に返った正幸は、ミカンを拾う代わりに、逃げるようにその場から遠ざかった。やがて三十歳になるというのに、小学校四年生のときのトラウマが正幸を支配していた。

 それ以来、人に親切にしようとすると目の前に立ちふさがる理不尽な過去を払拭したいと思い詰めていたからだろうか。正幸がトラウマを乗り超える機会は、地下鉄の出口にひっそりと座っていた。伸び放題の髪の毛と無精髭、頬骨の高い土色の顔、これ以上汚れようのない衣服…。膝を抱え、地下鉄の降り口の壁にもたれて身動きをしない男に、

「あの…ぼくに何かできることはないですか?」

 声をかけた正幸自身が驚いていた。何の抵抗もなかった。

 男が吠えるように何かを言ったが、前歯が無いせいだろう、うまく聴き取れなかった。

「え?」「え?」と何度か聞き直し、それがカップ酒だと分かったとき、正幸は目の前のコンビニを往復して、男の目の前に一合の日本酒を差し出した。男はコップを捧げ持つようにして一気にそれを飲み干した。

 週に一度、講師を引き受けている塾に通う度に、男にカップ酒を買うのが正幸の習慣になった。

 男は正幸の顔を見ると、前歯のない口を開けて笑うようになった。

 嬉しかった。親切が素直に受け入れてもらえるのは気持ちが良かった。しかし、ひと月も経たないうちに男の姿を見なくなり、正幸は路上生活をしている別の男から声をかけられた。

「あんただね、火曜日の人っつうのは」

「は?」

「源さんが嬉しそうに言ってたよ、火曜日に地下鉄から出て来る親切な人がカップ酒をくれるってな。しかし肝臓の悪い源さんに酒の味を思い出させちゃいけないよ、源さんはだれかれ構わずカップ酒をねだるようになって、空き缶集めたカネも全部飲んじまうようになって、ある朝、血を吐いて死んでた」

 言葉を失った正幸に男は、

「源さん、いい顔をしていたよ」と付け加えた。