怒りのつぶて

令和03年07月07日

 午前六時に出る予定を五時に早めてみたが、どの自販機のボックスも、アルミ缶だけがきれいに取り除かれていた。空き缶集めにも縄張りがあることを知らないやつの仕業なら教えてやらなければならないが、松蔵と鉢合わせするのを避けて、早い時間に収集しているのだとしたら、どんな社会にだって秩序があることを力で思い知らせてやらなければならない。

 翌朝四時に自販機に出かけると、まだアルミ缶は残っていた。

 松蔵はビル陰に身を潜めて待った。

 やがて自転車が停まり、瘠せた男がアルミ缶だけを手際よくビニール袋に詰め込むと、次の自販機へ向かった。

 松蔵はこっそりと後をつけて、橋の下の寝ぐらを突き止めた。

 集めて来た空き缶を足元に広げて、浩介は一つ一つ丹念に踏みつぶし始めた。体積が減れば、回収業者への運搬が飛躍的に楽になる。一袋一キロで二百五十円。千円稼ぐのは結構な労働だった。浩介は空き缶を踏みつぶす度に、あの女子高生に対する怒りを込めた。

 東京で開催された中堅教員対象の研修に出た帰りの山手線で、

「この人、痴漢です!」

 制服の女性に手首をつかまれた。

 身に覚えのない浩介は終始潔白を主張したが、裁判官は被害者の証言を信用した。教員の破廉恥犯罪はマスコミの餌食になり、執行猶予はついたものの、浩介は職と信用と最愛の妻を失った。こんなとき父親が生きていれば…と思ったが、結局、世間の目から逃げるように浩介は故郷を捨て、残された母は自殺した。五十代の男の人生と七十代の母親の命が、たった一人の未成年の女性の勘違いで奪われてしまう体験は、浩介から陽の当たる社会で生きて行く自信を根こそぎ奪うのに十分だった。

「くそ!おやじとおふくろのところへ行きたいのに、死ぬ勇気もない!」

 浩介は夢中で缶をつぶしていたが、ふいに怖い形相で目の前に現れた松蔵の姿を見るや、瞬時に事態を悟って逃げた。

 薄暗くなるまで時間をやり過ごして戻って来ると、缶はきれいに持ち去られていた。 明日にでも寝ぐらを変えなければ…と、空腹の浩介は闇の中で身の危険に怯えていた。

 浩介の怯えはその晩のうちに思いがけない形で現実になった。

 レーザーのような懐中電灯の明かりが突然土手から浩介を照らし、飛んで来た小石が川に落ちてポチャリと音を立てた。

「ばか、おれに任せろ」

「肩壊しても俊ちゃんはエースだからな」

「学校は故障した野球部員は要らないんだ」

「野球だけやってたおれたちに、普通に定期試験受けて進級せよったって無理だよなあ」

「もっと右だよ、右を照らせ!」

「なあ、俊ちゃん、おれたちどうなるんだ?高校中退したら…」

「知らねえよ、橋の下だって生きて行ける世の中だ」

 何とでもなるんじゃねえ!と俊一が力一杯投げた石が、うずくまった浩介の後頭部を直撃して鈍い音がした。

「やべえ!逃げるぞ!」

 翌朝、橋の下で見つかった遺体のポケットからビニールに包まれた紙片が発見された。

 紙片には女の筆跡で『浩介は痴漢ではありません』という端正な文字が読み取れた。