自転車

令和03年09月03日

 週に一度日曜日に、面会がてら、文江の部屋の掃除に出かけようとすると、きまって民輔の声が聞こえる。

「この暑さだ、毎週行くことはないんだぞ。おふくろはゴミで死にはしないし、目に余れば、施設から連絡が来る」

 久子はタンスの上の夫の位牌を横目で見て、

(心配するんだったら何でおかあさんより先に死ぬのよ…)

 今では形見になってしまった民輔の自転車にまたがった。

 壊れた久子の自転車より一回り大きいが、サドルを下げれば六十三歳の小柄な久子でもじゅうぶん漕げた。

「久子さん、これ持ってってあげなよ、採れたてだよ」

 隣家の主婦が、レジ袋に入った数本のナスときゅうりを自転車のカゴに入れてくれた。

 ぼろアパートの密集する地域だったが、住人はやさしかった。

 二十分ほど先の駅に自転車を置いて、軽費老人ホームの最寄り駅まで電車で十五分。

 山の上の施設は、駅を降りてからの坂道が大変だった。

 レジ袋を提げて汗だくになりながら歩く久子を、

「乗っていきませんか?」

 たまたま通りかかった施設の職員が、軽自動車の助手席に乗せてくれた。

「有難うございます。助かりました」

「毎週、ご苦労様です。職員がこんなこと言ってはあれですが、土地が安いからって高齢者の施設を山の上に作ってはいけませんねえ…。みなさん、坂がきつくて苦労されます」

「いえ、それでも年金程度で給食とお風呂がついて生活できる施設があるのは助かります。田舎で一人暮らしが無理になっても、狭いアパートには引き取れません」

「だんなさんのお母さんなんですよね?文江さんは」

「おふくろを頼むというのが夫の最後の言葉でしたから…」

 無精者の文江の部屋の掃除をし、ペットボトルを捨て、備え付けられている旧式の冷蔵庫の霜取りをしてから、十分ほど一緒に麦茶を飲んだ。

「民輔は忙しいのか?」

 文江はたまに息子が死んだことが分からなくなるらしい。

 認知症が始まったら今の施設にいられるのだろうか…。

「それじゃおかあさん、また来週来るから」

 帰る久子を文江は施設の玄関まで見送りに出た。

 坂道は上るより降りる方が膝に負担がかかった。電車に乗ると冷気が汗みどろの体を冷やし、降りると再び汗が噴き出した。自転車を置いた場所で久子は立ちすくんだ。たくさんあった自転車は一台もなく、地面に地図のついた貼り紙があった。

『自転車は撤去したので保管場所まで引き取りに来て下さい』

 引き取るのには三千五百円が要るという。年金生活の久子には大きな金額だった。保管場所は余りにも遠方だった。行きは電車に乗っても、帰りは引き取った自転車で、上りの坂の続く県道を一時間近くは漕がなくてはならない。しかも猛暑である。

 とりあえず、家に帰ろう…。

 久子は歩いた。太陽とアスファルトの照り返しが久子の体を焼いた。二十分ほど歩いたところでめまいがした。突然、暑さが遠のいたかと思うと、久子は激しく吐いて意識を失った。

 通行人の通報で駆け付けた救急隊員が大声で叫んだ。

「心肺停止!熱中症です!」