ハム

令和03年09月07日

 ホワトボードの中央に大きく澤村公子と書いて、

「今日からお世話になる澤村です。よろしくお願いします」

 配属されたフロアで公子が新任の挨拶をすると、

「ハムだ!」

 カタカナが読める自閉症の雅也が大声を上げた。

「確かにハムと読めますが、これは漢字の…」

 言いかける公子の言葉を「ハムだ!」「ハムだ!」という声と笑いがかき消した。

「よし、終り終わり!みんな静かに作業に戻れ!」

 ベテラン職員の磐田が怖い顔で一喝すると、二十人ほどの知的障害者たちは逃げるように三つのテーブルに戻って作業の続きに従事した。公子は社会福祉士として、軍隊のような磐田のやり方に疑問を抱いた。作業所は生産を目的としていない。作業を通じて生活のリズムを保ち、努力や協力や達成や参加の喜びを障害者たちに学習させるための福祉施設である。だからこそ職員は指導員ではなく支援員と呼ばれ、当事者の主体性を重んじる専門的視点が求められている。

 ところが、ゴム部品のバリ取り班を任された公子は、六人の利用者を励ましたり促したりして作業に取り組ませようとするのだが、ささいなことで喧嘩が始まると、なだめても気を逸らせても収拾がつかなかった。そんなときは、

「お前たち、何やってるんだ!」

 隣の箱折り班のテーブルから磐田が怒鳴りつけて、騒ぎは嘘のように収まった。怒鳴ったあとで、

「みんな、澤村先生の言うこと聞けよ。ハム、好きだろ?」

 磐田が繰り出す冗談に周囲がどっと笑い、公子は迂闊にも雲間から日が射したような安心感を覚えた。

 それが全ての始まりだった。

 やがて利用者は公子の指示には従わず、磐田が怒鳴ったあとで公子をハムと呼んでからかうのを楽しみにするようになった。

 古い職員たちが磐田の振舞いに追従した。

 公子は指導力のなさをカバーしてくれる磐田に救われながら、利用者を怒鳴りつける磐田を嫌悪した。不甲斐なさと憤りの両方が公子を苦しめたが、磐田のからかいを明るく受け入れることで、かろうじて複雑な感情に区切りをつけた。

「ハム子、優しくしてちゃだめだよ、大声で叱らなきゃ」

「ハム子、お前、専門職だったら作業をちゃんとさせてみろよ」

「ハム子、お前、職員辞めろ。利用者として扱ってやる」

 からかいは次第にエスカレートして、眼鏡を取られたり、靴を隠されたりしたが、これまで明るく受け入れていた流れが邪魔をして、

「もういじめはやめて下さい!」

 とは言えず、代わりに公子はぎこちなく笑って見せた。

 本人も歓迎しているという前提で、ほとんどの職員が公子のことをハム子と呼ぶようになった。職場では笑顔で反応しながら、公子は眠れなくなり、食欲が落ち、気力が萎えた。

 目に余るいじめを心配したパートの職員が、それとなく所長に相談したが、

「ご本人から申し出がなくてはどうにもねえ…」

 所長は実力者の磐田を敵に回すようなことはしなかった。

 公子が鬱病の診断を受けて長期の病欠に入ったのは、就職して一年が経とうとする三月の初めだった。