寄せ書き

令和03年10月06日

 房子へのプレゼントの選択肢が年々狭くなってゆく。

「食べ物がだめとなると…結局、着るものってことになるわね」

「粒あんとバターを挟んだ菓子パンが好きだったけどなあ…」

 咀嚼能力に低下は見られないが、房子は固形物の食感を受け付けなくなっていた。口中の問題ではなく脳が拒否している。

「ホント、認知症って謎よねえ。歯も嚥下も問題ないのに、流動物以外は吐き出しちゃうなんて…」

 脳というコントロールタワーの不具合は、生体の機能に思いがけない影響を持つ。ひょっとすると味覚も視覚も聴覚も触覚も、房子は謙一や陽子のそれとは全く違う世界を生きているのかも知れない。

 最近は電話を受ける操作がおぼつかなくなった房子を試そうと、面会の折りに隣に座る房子の携帯に電話をかけると、

「あ、もしもし」

 房子は手元の折りたたんだ老眼鏡を耳に当てて返事をした。

 謙一は、房子の携帯電話の契約を解約した。

 こうして房子との電話での会話は途絶え、母と子の交流は週一度の面会だけになったが、今度は新型コロナウィルスに機会を奪われてやがて一年になる。

「でもよかったじゃない、あなただけでも面会が許されて」

「誕生日だからって無理を言ったけど、熱を測り、マスクをし、手を消毒して、別室でわずか十分間という条件だ、厳しいよな」

「それじゃ私、九十二歳に相応しいブラウスを探してくるね」

「おれは子どもたちにそう言って寄せ書きを作るよ」

 房子は果たして一年ぶりの息子の顔を覚えているだろうか…。

 謙一には何よりもそれが気がかりだった。

 東京の娘からは、夫婦と二人の子どもたちの写真がメールで送られてきたが、息子からは、上の子が発熱しているので写真が撮れないという電話が来た。

「医者で胃腸風邪の薬が出たよ。保育園で流行ってるんだ」

 コロナじゃないから安心しろという息子の背後で、はしゃぐ弟を静かにさせようと奮闘する母親の声がする。

 子どもの頃、息子もよく熱を出した。

 順繰りだな…。

 謙一はパソコンに保存してある写真から選んで印刷をし、三つ折りの色紙に貼ると、周囲をカラフルな寄せ書きで飾った。

『九十二歳、おめでとう!』、『元気でいて下さい』、『コロナが収まったら会いに行きます』、『ぼくは今年、大学入試です。応援していてね』、『ひ孫がこんなに大きくなりました』。

 管理者の尾藤に車椅子を押されて応接室に現れた一年ぶりの房子は、謙一の顔を見るなり日が差したように明るい表情になって、両眼が力を帯びた。盛んに何かを言おうとして言葉が結ばないが、房子は間違いなく謙一を覚えている。

 陽子の見立てたブラウスと寄せ書きを手に、房子は促されるままに笑顔で写真に納まった。

「十分という約束だから、そろそろ行くけど、かあさん、コロナに感染しないように気を付けてね」

 別れ際に謙一が手を握ると、房子は強く握り返した。

 玄関まで謙一を見送って居室に戻った房子に尾藤が言った。

「久しぶりに謙一さんに会えて良かったですね、房子さん」

 すると房子は驚いたように尾藤を振り返ってこう言った。

「謙一が来たんか?」